「羊はその声を聞き分ける」

                      ヨハネによる福音書10章1~6節 

                                                  水田 雅敏

 

今日からヨハネによる福音書の10章に入ります。

この10章の最も中心的な事柄は、11節と14節に繰り返されている、「わたしは良い羊飼いである」という主イエスの言葉がよく示しています。

家畜小屋に生まれ、やがて私たちのところに来られ、今、聖霊によって私たちを支配しておられる主イエスが、私たちの羊飼い、しかも良い羊飼いだということです。

1節から3節で主イエスはこう語っておられます。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」

1節に「囲い」という言葉があります。これは柵で囲まれた囲いで、羊が夜、眠る所です。牧草地の真ん中に作られていたかもしれませんし、あるいは農家に隣接して羊の群れが憩う所として作られていたかもしれません。

いずれにしても、その柵には「門」があり、「門番」がいました。門番は羊のいる間はいつも番をしていなければなりません。特に夜は目を光らせていなければなりません。

一つの囲いの中にいる羊を一人の羊飼いが養っていたのではありません。羊が幾つかの群れに分かれていて、それぞれの群れに一人ずつ羊飼いがついていたのです。

朝になると羊飼いは務めを始めるために囲いにやって来ます。羊飼いは門番と顔見知りですから、門番は羊飼いのために門を開きます。羊飼いは自分の羊をよく知っています。名前とかあだ名がついていて、それを呼んで連れ出します。羊は羊で自分の羊飼いの声をよく知っています。聞き分けて、そのあとをついて行きます。

このような羊飼いたちの姿を、おそらく主イエスはいつもご覧になっていたのでしょう。「よくあんなふうに混乱しないで、間違わないで自分の羊飼いのあとについていくものだ」と感心して見ておられたのでしょう。

そう思って読み進めていくと、6節に不思議なことが書かれています。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」

主イエスが話された羊飼いの譬えは、実はファリサイ派の人々に向かって語られたものなのです。主イエスが誰かに対して語っておられる言葉を、ファリサイ派の人々が傍で立ち聞きして、「いったい何を語っておられるのか分からない」と言ったわけではありません。彼ら自身に向かって語られたのに分からなかったというのです。

何が分からなかったのでしょうか。ファリサイ派の人々も、主イエスと同じように、日常のこととして羊飼いの姿を見ていたでしょう。主イエスからいちいちそんな話を聞かなくても、羊飼いがどのようにして羊を養っているかを知っていたでしょう。

それなら何が分からなかったのでしょうか。その話と自分たちとどんな関係があるかが分からなかったのです。

どうしてそれが分からなかったのでしょうか。

一つここで明らかなことは、10章から新しい話が始まったわけではないということです。9章でヨハネによる福音書が語っている物語がまだ続いているのです。

エルサレムに生まれつき目の見えない人がいました。その人に主イエスのほうから声をかけられ、その目にご自分の唾でこねた泥をつけてシロアムの池で洗わせました。そのようにして主イエスはこの人を癒されました。

ところが、ファリサイ派の人々はこの人を裁判にかけました。そして、「お前を癒したあのイエスを否定しろ。あのイエスが特別な存在だなどということを認めるな」と責め立てました。この人は、「そんなことはない。あの方こそ神から来られた方だ」と言い張りました。その結果、この人は追い払われてしまったのです。

おそらく次のように言ってよいと思います。この人は、良い羊飼い、まことの羊飼いである主イエスの声を聞き分けることができた。「わたしはこの方について行きます」と言ったのは、この人だった。しかし、ファリサイ派の人々はその人を放り出してしまった。

4節から5節の主イエスの言葉で言うと次のようになります。「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

「ファリサイ派の人々、あなたがたはこの人を追放した。しかし、真相は、この人があなたがたから逃げたということではないか。なぜ逃げたかというと、あなたがたの言葉に羊飼いの声が宿っていないからだ。あなたがたこそ本当はこの人を養うべき羊飼いだったのではないか。」

主イエスは3節と4節でこう語っておられます。「羊はその声を聞き分ける」。「羊はその声を知っている」。

同じ内容の言葉が繰り返し語られているということは、よほどそこに主イエスの心が懸かっていたのだと思います。

私たちの信仰生活というのは、毎日、決断の連続です。「ああしようか。それともこうしようか」と思いあぐねているうちに、時が迫ってきます。

こうしようと決めなくてはいけない。そのような決心の時に、私たちはどのような判断をするでしょうか。何によって決断するでしょうか。主イエスの声を聞き取って、主のあとについて行くことができるでしょうか。「この方のあとについて行けば間違いない」という判断が、どれだけ私たちの行動を決定しているでしょうか。

主イエスは、ご自分の羊として、ご自分に属する者として、私たちを愛し、養ってくださいます。しかし、私たちは、その主イエスの羊であることよりも、自分は自分に属していると考えがちなのではないでしょうか。私たち自身が、私たち自身を盗人、強盗にしかねないのです。

ある牧師が求道者を導きながらこんな話をしたそうです。その求道者はとても熱心な人でした。とても誠実な人でした。そのことを自分でもよく知っていました。それを確信し、それによって生きていました。

ある時、その人は牧師に向かって言いました。「私は本気なんです」。すると牧師はこう言ったというのです。「あなたが本気なのは認めるけれども、気をつけてほしい。あなたがどんなに本気になっても、あなたを救うために神が本気になっていることには及ばないから。自分は本気だ、誠実なのだということに依りかかってだけ神を求めていたら、あなたはとても大きな間違いをすることになる。あなたはそのようにして、神の救いを捕らえ損なうかもしれない。」

これは求道者だけでなく、既に洗礼を受けている人たちの間においても見られる姿なのではないでしょうか。主イエスの声を聞くよりも、その人の信念のほうが先に立っているのです。

「これは私の信念だ。これは私の真実を賭けているものなのだから、誰に何と言われても変えるつもりはない」。私たちもそう思い込むことはないでしょうか。

しかし、主イエスの御声が聞こえてきたならば、私たちは自分や自分の真実すらも捨てなければなりません。そうしないとファリサイ派の人々と同じ過ちを犯すことになってしまいます。

ファリサイ派の人々は本気で生きていた人々でした。その彼らが、まことの羊飼いを目の前にしつつ、その声を聞き損ないました。主イエスがどんなに本気で彼らをご自身の羊として捕らえ直そうとしたかが、分かりませんでした。

 

私たちは、私たち自身が自分自身の魂をまことの羊飼いから奪ってしまって、結局は自分を羊として飼うのは自分自身であるかのような錯覚に陥ることがないように、しっかり主イエスの言葉に耳を傾けたいと思います。主イエスの言葉こそ、私たちが生きている時にも死ぬ時にも信頼すべき言葉です。その御声がよく聞こえるように、私たちはいつも信仰の耳を澄ませていたいと思います。