「神の安息に憩う」

              ヘブライ人への手紙4113

                                 水田 雅敏

 

このヘブライ人への手紙の著者とこの手紙を読む者が共通して持っているのは、われわれは旅をしている、という理解です。「あの荒れ野の旅をしたイスラエルの民と同じように、われわれも荒れ野の旅をしている。迫害に耐え、人々の誤解に囲まれながら旅をしている。」

この旅は一人旅ではありません。神の民、神の家族が一緒に旅をしています。それが教会です。

その群れから落ちても、自分は信仰を持ち続けるということ、これは、その人が錯覚してそう思うことがあるかもしれませんけれども、実際にはあり得ないことです。

だから、今日の聖書の1節に「取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」という警告が語られているのです。

「取り残される」というのは神の安息から取り残されることです。みんなが神の安息の中に生きているのに、ふと気づくと自分一人、不安と恐れの中に落ちているということがないように気をつけましょうというのです。

この「気をつけましょう」と訳されているもとの言葉は「恐れをいつも抱きなさい」という意味の言葉です。恐れをもって気をつけるのです。

実際に考えてみると、気をつける時に恐れがなければ、私たちは注意深く気をつけることは難しいかもしれません。「気をつけなさい」。道を歩いていてもそういう言葉をかけられることがあります。「危ない!」という声でお互いに守っているのです。車を運転していても信号に気をつけなければなりません。交通の規則は守らなければなりません。

その交通規則に対しても、信号一つ守るにしても、私たちが鈍くなるのは恐れを忘れる時です。ここでこのぐらいのことをしたって別にどうということはないではないか、そう思って運転している人が一度交通事故を体験すると、中には恐れのあまりもうハンドルを握ることができなくなることさえ起ります。本当はそのような過ちを犯す前に恐れることを知っていれば注意深く運転し、歩くことができるでしょう。

神の家族の旅においても同じような恐れを知るがゆえの注意深さが必要なのです。

では、私たちは何に気をつけるのでしょうか。神の言葉です。神の言葉を聞き損なわないようにするのです。

神の言葉についての鈍さは神の言葉を軽んじるところから生まれます。

2節にこうあります。「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。」

「聞いた言葉」とありますけれども、これは同じ2節で「彼ら同様に福音が告げ知らされている」と語られているものです。

「福音」、喜びの知らせ、神が喜びを告げてくださる、幸いを告げてくださる、その言葉を聞いていながら、その言葉が役に立たないのです。神の言葉は既に聞かされています。私たちの中へ飛び込んできています。それが役に立たないのです。そのために喜びを失ってしまうのです。

喜びを失った生活をしていると、まるでそれが神の責任で起こってしまったかのように思い込んでしまうことがあります。しかし、この手紙の著者はそうは言いません。

2節にこうあります。「その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」

「結び付く」とありますけれども、これは混じり合うことです。私たちと神の言葉とが混じり合うのです。御言葉が私たちの存在と結び付き、絡み合い、混じり合うほどに聞かれるのです。

そのようなことを言われると、いつも礼拝に来て聖書の言葉を聞き、説教を聞いている時には考えるところがあっても、帰る途中でだんだん忘れ始めて、家に着いた時にはもうすっかり忘れてしまっているという、自分の心細い聞き方を心配する方があるかもしれません。しかし、ここで問題になっているのはそういうことではありません。

この手紙が語っている信仰の一つの特徴は持続する信仰です。ある時は信じ、ある時は信じなくなって、というのではなくて、信じ続けるのです。

私たちの人生は、福音に生かされているといいながら、いつも喜びに溢れているわけではありません。何かに抑え込まれているような日々を過ごすこともあります。しかし、そこで神の言葉は失われることはないのです。御言葉はそのような荒波の中でむしろ耐える力となります。

そのような信仰はどこから来るのでしょうか。

9節にこうあります。「安息日の休みが神の民に残されているのです。」

持続する信仰、信じ続ける信仰は神の安息から来ます。神の安息を知っているというところから来ます。神の家族はこの神の安息の中に生き続けるのです。

そこで、この手紙の著者は3節の終わりから4節で、旧約聖書の創世記が語る出来事を振り返っています。「もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある個所で七日目のことについて、『神は七日目にすべての業を終えて休まれた』と言われているからです。」

この言葉を聞いて、この手紙の読者はすぐに創世記の創造の記事を思い起こしたでしょう。そして、信仰とはこの神の祝福にあずかることだということを改めて思い知らされたと思います。

この手紙の著者はなぜこのようなことを語らなければならなかったのでしょうか。それは私たち人間の罪が神の安息を拒絶するところから始まったからです。

アダムとエバが既に神の安息の楽園から逃げ出しました。神を拝むことよりも自分が神のようになったほうがいいと思ったのです。出エジプトの民もまた荒れ野の旅の厳しさに耐えかねて神の安息の中に憩うことを忘れました。

私たちにも神が用意してくださった安息を信じない鈍さがあります。神の言葉への鈍さがあります。その鈍さから解き放つために、イエス・キリストが、神よ、どうぞこの人たちを赦してやってください、もう一度あなたの力で神の祝福の中へ呼び戻してくださいと執り成しの業を始めてくださったのです。

この手紙の著者が「気をつけましょう」と言っているのは、この神の祝福から落ちないようにしようというそれだけのことです。御言葉を聞き続ける柔らかでしなやかな心を失わないようにしようというのです。神の言葉は私たちの安息を確保してくださるのです。

10節にこうあります。「神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。」

イエス・キリストの教会には私たちに先立って歩んだ信仰の先輩たちが沢山います。既に永遠の安息の中に憩うている人たちが数えきれないほどいます。彼らはただがむしゃらに働いたのではありません。自分たちの信仰の手柄を立てようと働き続けたのではありません。そうではなく、自分たちは神の安息の中で憩うことができるその祝福を知り続けて、だからこそ働くことができたのです。

私たちは地上の生活を続けている間はここで安息の礼拝を楽しみます。そして、地上の生涯を終えた時、天にある安息に帰ります。

 

この安息から安息へと向かう歩みは誰でも始めることができます。神の言葉に捕らえられている限り、いつでも新しく生き始めることができます。教会はそういう場所です。共に手を携えて、なおひたすら歩み続けていきたいと思います。