「御子を仰ごう」

               ヘブライ人への手紙114節 

                                 水田 雅敏

 

今日からヘブライ人への手紙をご一緒に学びます。

ヘブライ人への手紙の1章の1節から4節には「御子」という言葉が何度も繰り返されています。この「御子」とは言うまでもなくイエス・キリストのことです。

この手紙は迫害の中、戦いの中で書かれた書物です。しかし、その戦いは外から挑まれた戦いに留まらなかったようです。この手紙が書かれた頃は既にキリストの教会の歴史が何世代か積み重なっていました。しかも、ローマ帝国の迫害が止むことなく長い間ずっと続いていました。

ですから、ある人はこう言いました。「その頃のキリスト者は疲れ果てていた。膝が衰えていた。その足腰を鍛え直さなければならない。そこで一人の伝道者がこのような言葉を語り始めたのだ。」

またある人はこう言いました。「この手紙の著者が繰り返し答えなければならなかった問いは、『なぜ、われわれはこんなに苦労して信じていなければならないのか。なぜ、命を懸けてまで信じていなければならないのか。この苦労はいったいいつまで続くのか』ということだった。」

外部からの迫害に加えて教会内部の危機があったのです。

そこでこの手紙の著者が呼びかけたのは「御子イエス・キリストを仰ごう」ということでした。「われわれはイエス・キリストがどなたであるかということをもう一度学んで、この方が何をしてくださったか、何をしてくださるかを知ることによって、ここで耐えよう。希望をもって生きよう。誇り高く生きよう」と励ましたのです。

現代に生きている私たちが悩まされていることの一つは誇りをもって生きられなくなっていることではないでしょうか。頭を上げて生きることができなくなっているのです。うなだれてしか生きることができなくなっているのです。どうしてでしょうか。希望が見えないからです。「自分のような者が生きいてどうなるのか」と打ちひしがれた思いに捕らわれてしまっているからです。

子供も年を重ねた者も皆、誇りをもって生きることができるならば、こんなに素晴らしいことはありません。その誇りを支えるものは確かさです。自分が今生きている道は間違いないという確信です。

その確信がどこから生まれてくるかというと、それは御子です。イエス・キリストです。主が私たちを支配しておられるということです。この手紙の著者はそれを教えようとしているのです。

この手紙の著者はなぜ、イエスでもなく、キリストでもなく、「御子」と呼ぶのでしょうか。それは御子という言葉が神とイエス・キリストとの関わりを最も密接に、最も正確に言い表しているからです。

3節にこういう言葉があります。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって」。

「反映」という言葉があります。これは興味深い言葉です。反映といえば、ちょうど月のように、それ自身が光の源でない場合が考えられます。けれども、この「反映」と訳されているもとの言葉は「輝き」と訳すこともできる言葉です。イエス・キリストは御子として神の栄光を輝かせておられるのです。私たちはイエス・キリストに神の輝きを見ることができるのです。

「神の本質の完全な現れ」というのも同じことです。「本質」というのは、言い換えれば、「臨在」ということです。神が生きておられるということです。神がイエス・キリストにおいてその本質を明らかにしておられるのです。

この御子は、2節を読みますと、この終わりの時代に神が決定的な言葉を語られた者だといわれています。「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」

それは、神がイエス・キリストを通し、イエス・キリストにおいて、もうこれ以上語ることはないという形で語られたということです。イエス・キリストがただ神の言葉を伝えてくださったということではありません。ここで神の意思が決定的に明らかになったのです。

それに続いて、「神は、この御子を万物の相続者と定め」とあります。

神は御自分がお造りになったものをイエス・キリストにお委ねになり、御自分の祝福がすべてのものを覆い続けるように整えてくださったのです。

それは私たち一人一人のことでいえば、「私もイエス・キリストのもの。私もイエス・キリストのもの」と誰もが例外なしに確信することができるということです。あなたも私もイエス・キリストのものになるのです。

それに続いて、「また、御子によって世界を創造されました」とあります。

この言葉は次のように読むことができます。創世記が語っているように、すべてのものが造られたところで、イエス・キリストもまた一生懸命お働きになった。それが一つの理解です。

しかし、それだけではありません。「世界」と訳されているもとの言葉は「代々」と訳すことのできる言葉です。あるいは「時代」と訳してもよいかもしれません。

私たち人間の歴史は代々の時代の連続です。その一つ一つがイエス・キリストによって造られているのです。

それはこの世の存在の根拠は私たち人間の中にはないということです。ほかのいかなるものの中にもない、イエス・キリストの中にしかないということです。別の言い方をすると、私たちは御子において示された神の祝福の中にしかないということです。私たちは呪われてはいないということです。

3節に「人々の罪を清められた」とあります。

私たちは皆、清められているのです。イエス・キリストを信じた時に、その御子の御業の中で清くなっているのです。

3節に「天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」とあります。

ある人は、「これは当時の教会が礼拝ごとに口にしていた信仰の告白の言葉だったのではないか」と言っています。

この手紙の著者は当時のキリスト者たちが信じていたことをここで改めて浮かび上がらせて、私たちに既に与えられているイエス・キリストの大きさがどんなに素晴らしいものであるかを示そうとしているのです。

これから読んでいくと分かりますけれども、この手紙がすぐに始めるのは御子と天使とを比べることです。イエス・キリストは天使よりもずっと優れているという話をします。なぜ優れているかというと、イエス・キリストは天使よりもずっと低くなられたからだといいます。私たちと同じ存在になられたからだというのです。

それはイエス・キリストが、私たちと同じように、死ぬ人間になられたということです。「イエス・キリストはわれわれと同じように死んでくださった。そして、死の恐怖の奴隷になっている者を自由な者としてくださった」というのです。

死の恐れがあるから震えるのです。意気地がなくなるのです。「信じる意味があるか」と問うのです。その時に、まさに命の先駆者となったイエス・キリストを仰ぐことを、この手紙の著者は説き始めるのです。

 

この手紙を13章の終わりまで読み続けることはまことに幸いなことです。読み終えるまで何が起こるか分かりません。けれども、何が起こっても神の祝福に変わりがないことを、私たちは共に喜び、誇りとしたいと思います。