「罪から解き放たれる道」

                        ヨハネによる福音書82130

                                                                                                               水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の8章の21節から30節です。

この箇所には三度繰り返されている言葉があります。それは「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉です。

まず、21節にその言葉が記されており、さらに、24節に二度繰り返されています。

主イエスがこのように三度も繰り返しておられるというのは、とても重い意味を持っていると思います。よほどのことだと思います。

私たちがなぜ主の日のごとにここに集まるのかといいますと、その理由の一つは、私たちが皆、死ぬべき存在だということを知っているからです。ここに集まるたびに私たちは自分の死に備えるのです。信仰を持ったからといって死なない人間になるわけではありません。皆やがて死ぬのです。

問題は、私たちが死ぬ時に、「この人はその罪の中に死んだ」と言われるような死に方をしないで済むか、ということです。周りの人がそのように判断するかどうか、ということではありません。主イエスがご覧になって、「この人はわたしが心配していた通りに罪の中に死んでしまった」とおっしゃらなければならないような死に方をしてはいけない、ということです。

8章の12節で主イエスはこう語っておられます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

私たちはこの命の光を与えられたまま死を迎えたいと願っています。そして、「この人は命の光を持った者として死んだのだから、私たちもその光の中で、この人を喜んで神の御もとに送ろう」と、教会の仲間が自分の棺を囲んでくれる日を、心の内に願っています。しかし、その私たちの願いよりも遥かにまさって、主イエスがそのことを真剣に問うておられるのです。

先週、私たちはクリスマスを祝いました。御子の降誕を覚えました。主イエスがこの地上に来られた理由の一つは、この主の言葉にあります。私たちが罪のうちに死なないための戦いを、主イエスはここでしてくださっているのです。

主イエスは私たちを罪の死から解き放つために、ご自分が死ぬべきことをお語りになります。

21節にこうあります。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」

ここに語られていることは、主イエスの死が誰も代わることのできないで死であるということ、誰もついて来ることのできない死であるということです。ただ独り、主イエスだけが歩むことができる死への歩みです。

それはいったい何でしょうか。

28節で主イエスはこう語っておられます。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」

「人の子を上げる」という言葉があります。これは主イエスが十字架に上げられることです。人々が主イエスを十字架に上げて、「この人は呪われている」ということを明らかにするのです。

しかし、この「上げる」という言葉は同時に、主イエスが人々とは異なった栄光の座に上げられる、という意味も持っています。人々の呪いの業が、神の側からすれば主イエスが栄光に上げられる出来事になるのです。不思議なことです。

主イエスはさらに不思議なことを語っておられます。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ…が分かる」。

「わたしはある」という言葉があります。

この言葉は24節にも語られています。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

ここでは「わたしはある」という言葉が「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ」という言葉にサンドウィッチのように挟まれて語られています。

つまり、私たちが自分の罪のうちに死ぬということが起こらないためにどうしたらよいかといいますと、この主イエスの「わたしはある」という言葉がよく分かっていればよいということなのです。

ヨハネによる福音書の中には「わたしは…である」という表現がたくさん出て来ます。先ほど注目した12節には「わたしは世の光である」という言葉がありました。以前に学んだ6章の35節にも「わたしが命のパンである」という言葉がありました。ほかにも数えることができます。「わたしは羊の門である」。「わたしは道であり、真理であり、命である」。

このようにヨハネによる福音書は、主イエスが「自分はこれこれのものだ」と言われた言葉に溢れています。

その言葉を私たちはそのまま受け入れればよいのです。「アーメン」と言ってそれに応えればよいのです。信仰とはそこに生まれるものです。

しかし、信仰とはそれだけではありません。ヨハネによる福音書の6章にはこういう出来事が記されています。

弟子たちが舟に乗って湖を渡ろうとしました。途中で嵐に遭います。主イエスは湖の上を歩いて渡って弟子たちに近づかれます。その主イエスの姿を見て、弟子たちは恐れました。その時、主イエスはこう言われました。「わたしだ。恐れることはない」。

主イエスが「わたしは…である」、あるいは「わたしである」「わたしだ」と言われることは、もうそれだけで私たちにとって大きな慰めになります。大きな力になります。「わたしだ」と言われる方が私たちに近づいて来てくださる、私たちと一緒にいてくださるのです。

それでは、主イエスを十字架に上げて、「この人は呪われている」ということを明らかにした人々、主イエスを十字架につけてしまった人々には救いの道はないのでしょうか。

主イエスはやがて復活されます。天に帰られます。そして、聖霊を送ってくださいます。聖霊を受けた時に、弟子たちの群れ、教会は立ち上がります。

その時、ペトロが教会を代表して説教をしました。その最後の言葉はこうでした。使徒言行録の2章の36節にこうあります。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

この時、ペトロは自分たちのことを除外してはいなかったと思います。ペトロだって逃げたのです。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と主イエスが言われたのに、彼は主から逃げてしまったのです。命の光を捨て去ってしまったのです。そのペトロが、再び主イエスの霊に捕らえられ、改めて命の光の証人として人々の前に立った時、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させて、主としてくださった」と告げたのです。

それを聞いた人々は大いに心を打たれ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。

ペトロは「悔い改めて、洗礼を受けなさい。それだけだ」と答えました。

今日の聖書の29節にこうあります。「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」

主イエスをお遣わしになった神の御心とは、私たちが救われる以外の何ものでもなかったのです。

 

こうして私たちは自らの死に備えるのです。私たちはもう自分の罪のうちに死ぬことはできなくなっているのです。まことに大きな恵みであり、まことに感謝すべきことだと思います。