「イエスの命が現れるために」   

                         コリントの信徒への手紙二4712

                                              水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の4章の7節から12節です。

前回学びました4章の5節でパウロは次のように言っています。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」

ここで語られていることは、当然のように思われていて、あまり深く考えられていないかもしれません。しかし、パウロにとってはこれこそ彼の活動の原点でした。

これは、パウロだけでなく、イエス・キリストを信じる人々が心から願っていることだと思います。なぜなら、キリスト者は皆、ただ信仰によって救われたからです。そうであるなら、救われてからの人生は全てイエス・キリストのお陰によるものだと言わなければなりません。

ところが私たちは、救われたのは自分のためであって、イエス・キリストはそのための道具でしかないように考えることがあります。そのためにキリスト者として生きる生活の目標が違ってしまうことがあります。イエス・キリストによって救われながら、救われたあとの生活が自分のためであり、自分をあらわすものになってしまうことがあるのです。

しかし、イエス・キリストをあらわすことが自分の生活の中心であるなら、話は全く変わってきます。イエス・キリストを与えられていることの尊さが分かります。イエス・キリストが自分の命であることが分かり、イエス・キリストによる救いこそかけがえのない宝であることを知るのです。

今日の聖書の7節の前半にこうあります。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」

この言葉は私たちの信仰生活の中心になるものです。「宝」とあります。これは容易ならない言葉です。信仰生活をする人がイエス・キリストの救いを宝と見ているかどうかです。「私には遺産として残すべきものは何もない。ただこの信仰だけを子供たちに伝えたい」と言うほどに、イエス・キリストの救いを尊く思っているかどうかです。

7節の後半にこうあります。「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」

福音を伝道することは私たちの使命です。しかも、その伝道する力を思うとき、それはどう考えても自分から出るものではありません。その力は神から出ます。福音そのものから出ます。これは宝です。どんな力をも出し得る宝です。

福音を宝として抱えていることは決して楽なことではありません。必ず困難に出会います。

8節から9節でパウロは迫害の苦しみに負けることのなかった自分の生活について、語っています。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」

福音が宝であるのは救われた者について言えることです。ほかの人々にとっては、それは何の値打もないものであるかもしれません。ある人々にとっては、福音は憎むべきものでした。ですから、福音が伝えられるところではどこでも迫害が始まりました。

迫害の理由にははっきりしたものもありました。例えば、神を神として拝むか、皇帝を神として拝むか、という問題がありました。ローマ帝国は皇帝を神として拝ませようとしました。ですから、イエス・キリストにおいて御自身を示された神だけを拝むキリスト者は迫害されるようになりました。そのことはのちの時代、現代に至るまで変わりはありません。福音は平和をもたらすとは限りません。それは剣を投じることもありますし、家族を引き裂くこともあります。

しかし、福音はいつもはっきりとした理由があって嫌われるわけではありません。何となく毛嫌いされる場合もあります。それが案外、重大な結果を引き起こすものです。つまらないと思われることがもっともらしい理由になります。憎しみというのはそういうものなのかもしれません。パウロはそういう困難に幾度となく遭ったのです。

10節から11節にこうあります。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」

キリスト者の生活というのはいつも死につきまとわれているようなものです。それは大げさな言い方でしょうか。現代ではそのようなことはあまり考えられないかもしれません。しかし、パウロの時代は決してやさしい時代ではありませんでした。

パウロは伝道がいかに大変であるかを言いたいのではありません。彼が言いたいのはイエス・キリストとの関係です。10節に「いつも」とあります。また11節に「絶えず」とあります。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架の上で死なれました。イエス・キリストが私たちの罪のために死んでくださったということ、それはイエス・キリストが私たちのために日ごとに死んでくださるということです。イエス・キリストの十字架の救いは、あの時だけの救いではなくて、私たちにとって毎日の救いです。それと同じようにイエス・キリストの死も私たちにとって日ごとの死です。私たちはその死をこの身に負っているのです。

パウロにとって伝道とは毎日、毎時刻に止むことなく、イエス・キリストのゆえに自分を死に渡すことでした。それはまるで自分を殺し続けるようなものでした。しかし、それは、ただ己を殺すというようなことではなくて、はっきりとした目的がありました。それは「イエスの命が現れるため」です。イエスが日ごとに死んでくださるという不思議なことによってキリストの命がこの身に現れるのです。

それは別の言い方をすれば、イエス・キリストの命によって生かされるということです。これは驚くべきことです。自分は土の器なのです。神の御業を行う資格のない者なのです。それが今、イエス・キリストの命をあらわすことに用いられるというのです。私たちに託された任務の厳しさを思わずにはいられません。それと同時に主の御業の力を思わされます。土の器である私たちがイエス・キリストの死と命とを人々に知らせる光栄ある務めにつかせられるのです。私たちの一切が神の御業のために用いられるのです。

このことについてはもう一つ重要なことがあります。それはその結果どうなるかということです。

12節にこうあります。「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。」

パウロの伝道には二つの目的がありました。一つはイエス・キリストのためということです。もう一つは伝道される人々のためということです。パウロはイエス・キリストに対しては、自分自身は死に、主が生きられるようにしました。伝道される人々に対しても、自分自身は死に、彼らが生きるようにしました。自分自身は死にイエス・キリストと他者を生かすことがパウロの伝道の目的だったのです。それはまた私たちの使命でもあります。

信仰はイエス・キリストと歩む人生であり、人々と歩む人生です。主が生きるとはどういうことなのか、主によって人が生かされるとはどういうことなのか、深く思わないわけにはいかないのです。