「私たちの命のパン」

                        ヨハネによる福音書651

                                                  水田 雅敏 

 

ヨハネによる福音書の6章は全体で大きな一つの物語となっています。この6章全体に題を付けるとすれば「命のパンの物語」と呼ぶことができるでしょう。

最初は主イエスが五つのパンと二匹の魚を用いて五千人以上の人々を養われたという奇跡でした。群衆はその奇跡に驚き、「この人こそ、来たるべき預言者に違いない」と言って、主イエスを王に持ち上げようとしました。しかし、主イエスはその話には乗らず、一人そっと山に退かれました。

そのあと、水の上を歩く奇跡を経て、主イエスは弟子たちとカファルナウムに行かれます。一方、群衆のほうは主イエスを捜し求めて、ようやくカファルナウムで発見します。しかし、彼らはパンの奇跡を深い意味で悟っていたわけではありません。それゆえ主イエスは「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と冷たく言われます。そして、永遠の命に至るパンの話を始められました。

群衆はその話を最初のうちは一生懸命聞こうとしていました。しかし、主イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われると、彼らはつぶやき始めます。42節にこうあります。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

以前、私たちが学んだ4章のサマリアの女と主イエスとの対話においても最初は同じようなずれがありました。しかし、あそこではだんだんと話の焦点が合っていきました。主イエスと話をしているうちに少しずつサマリアの女の心が変わっていったのです。

ところが、この6章のほうではむしろそのずれが決定的になります。主イエスはそのような群衆にご自分が天から降って来たパンであることを重ねて告げられます。51節にこうあります。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

ところで、この主イエスの話を聞いてつぶやいたのは群衆だけではありませんでした。弟子たちもそうでした。60節にこうあります。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

主イエスが天から降って来たパンであるというのは、間接的にクリスマスのメッセージを語っています。天におられた神の子がこの地上にやって来られたということです。

確かに、そのことは現代の私たちにとっても躓きであるに違いありません。今日でも聖書を読む多くの人は、「聖書というのはよいことが書いてあるけれども、主イエスが神の子だというのはどうも受け入れられない」と言います。「それは論理の飛躍だ」と言います。確かにその通りでしょう。頭で考えて、何々は何々である、それゆえに主イエスは神の子である、とはならないのです。

これは「主イエスは神の子である」と宣言されて、それを「アーメン」と言って受け入れるか退けるかのどちらかです。ですから、「信仰」と言うのです。「信じる」という言葉を使うのです。信仰は疑うということと裏表なのです。疑うことがある中で自分は信じるほうに賭けるのです。信仰は決断を伴うのです。ですから、同じことを見聞きしても、同じ聖書を読んでいても、全ての人がそこで信仰に至るわけではありません。

弟子たちのつぶやきを聞いていた主イエスはこう言われます。61節です。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもとにいたところに上るのを見るならば…」。この「…」の部分は「もっとつまずくに違いない」ということでしょう。

「主イエスが天から降って来た」というのがクリスマスを指し示しているとすれば、「もとにいたところに上る」というのは復活と昇天のことを示しています。

確かに、これはクリスマス以上に大きな躓きであるかもしれません。主イエスが神の子として天から降って来たということも、復活し昇天して神のもとへ帰るということも、論理的には証明できないことです。しかし、同じように、主イエスが神の子でなかったということも証明できないことです。ですから、そこではそれを証言している人々の言葉や、それを信じて生きている人々の生きざまを見ながら、そこに自分の人生を賭けていくかどうかという決断が重要になってくるのです。

さて、この6章はイスカリオテのユダのことについても触れています。イスカリオテのユダというのは、十二弟子の一人でありながら、やがて主イエスを売り渡してしまう人物です。70節から71節にこうあります。「イエスは言われた。『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」

これを読むと、誰もが心を重くさせられるのではないでしょうか。ただ、これについては確認しておきたいことがあります。それは、イスカリオテのユダというのは特別な人物ではないということです。イスカリオテのユダは私たちの心の中にもいるということです。

確かに、主イエスを売り渡すことになるのはユダですが、他の弟子たちも皆その可能性がありました。64節でも「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」と複数形で語られていますし、最後の晩餐の席で主イエスが「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」とおっしゃった時には、弟子たちは代わる代わる「主よ、まさかわたしのことでは」と言い始めました。このことは、他の弟子たちも皆、思い当たる節があったということを示しています。

また、ここでイスカリオテのユダが「悪魔」と言われていますが、主イエスが「悪魔」と呼ばれたのは彼だけではありません。自他共に認める一番弟子であったペトロは、主イエスがご自分の受難と復活を預言された時に主イエスの裾を引っ張り、脇へ引き寄せて、「先生、そんなことを言うもんじゃありません」といさめ始めました。その時、主イエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ」とおっしゃいました。ですから、「悪魔」はユダ一人ではありません。私たちの心の中にも同じように潜んでいるのです。何よりも、ペトロも大事な瞬間には主イエスを見捨て、「そんな人は知りません」と裏切ってしまうのです。

そういったことから考えると、イスカリオテのユダもペトロも相対的な違いでしかありません。私たちも含めて皆、同じ土俵の上に立っているのです。

私たちはむしろこのイスカリオテのユダのような人物でさえ、主イエスに選ばれ、召されて、十二弟子の中にいたということに神の計画の大きさ、すごさを思わされるのではないでしょうか。「このユダも主イエスに召されているのであれば、確かに私も召されている」と信じることができるのです。あなたも私も主イエスの選びから漏れていないのです。

多くの人が主イエスに失望し、あるいは憤慨して去って行った時、主は弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました。ペトロはこう答えます。68節から69節です。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 

私たちはどんな者であっても神の恵みの御手の中に置かれています。私たちは皆、神の恵みの招きを受けています。それに決断して従っていくかどうかによって人生のありようが異なってきます。このペトロの信仰の告白の言葉を私たちも自分自身の言葉として告白したいと思います。