「人を分け隔てしてはなりません」

           ヤコブの手紙214節 

                    水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヤコブの手紙の2章の1節から4節です。

1節にこうあります。「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」

「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリスト」とあります。はじめにこの言葉について考えたいと思います。

第一に、これは、あらゆる点においてこの世の栄誉とは比べものにならないものをイエス・キリストは持っておられるということを意味しています。この世のいかなるものをもってしても決して太刀打ちできない抜きん出た素晴らしさと力とを持っておられるのがわたしたちの主であられるということです。そのような栄光に満ちたイエス・キリストをわたしたちの主として信じる者にとっては地上の栄光というものは何ら問題にならない、何の意味も持たないとヤコブは言っているのです。

第二に、この「栄光」という言葉を考えていくときにもう一つの理解があることに気づかされます。それは新約聖書においてイエス・キリストに関して「栄光」という言葉が用いられるときに、ある共通したものが見られるということです。

その一つはマタイによる福音書の16章の27節です。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」

再びイエス・キリストが来られるときの様子が「父の栄光に輝いて」という言葉で言い表されています。

もう一つはテトスへの手紙の2章の13節です。「また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」

ここでも、再び来られるイエス・キリストについて語るときに「イエス・キリストの栄光」という言葉が用いられています。

このように、低いところに下って来られたイエス・キリストが再び高いところ、神のところまで上げられて、そしてその方が再び最終的にこの世の完成のために来られることが語られるときに、「父の栄光に輝いて」あるいは「イエス・キリストの栄光」という言葉が用いられています。裁きのために再び来られるイエス・キリストが語られるときに「栄光」という言葉が用いられているのです。

そのように見てきますと、今日の聖書でも「栄光に満ちた主」ということが言われているのは、終わりの時に再び来られる主、裁きのために来られる主という信仰がその背後に隠されていることが分かります。その再び来られる主イエス・キリストの前で人を分け隔てしたことについてあなたがたはいかに申し開きをするのか、それができるのか、できるはずがない、そのことを教え、そこにまで思いを深めさせるために、ヤコブは「栄光に満ちた」という言葉を用いてイエス・キリストのことを語っているのです。終わりの時にも通じること、やがて完成する神の国にも通じることをあなたがたは地上の教会で為しているだろうか、むしろそれとはまったく反対のことをしているのではないかというのです。

それではヤコブが指摘している「人を分け隔てする」こととはどういうことでしょうか。

その一つの例、あるいは顕著な例が2節から4節に語られています。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」

「あなたがたの集まり」とありますから礼拝の場と考えてよいでしょう。そこに二つの身なりの違う人が入って来ました。おそらくどちらも初めての礼拝への参加だったと思われます。一方は「金の指輪をはめた立派な身なりの人」であり、他方は「汚らしい服装の貧しい人」でした。教会の人たちは立派な身なりの人には「特別に目を留めて」、席に案内しました。他方、貧しい人に対しては「あなたは立ったままでいなさい」あるいは「わたしの足もとに座って目立たないようにしていなさい」という指図をしました。金持ちへのへつらいと貧しい人への蔑視、それが行われました。

礼拝に出席する人の体の状態や健康状態や年齢などに配慮して、それぞれの人にふさわしい席を設けることや、そこに案内すること、これはあり得ることです。それは分け隔てとか差別ということではありません。しかし、表面的な身なりによってあるいは社会的な地位によって教会の受け入れ方が不公平であり、また差別的であり、偏っているならば、果たしてそれは栄光に満ちた主イエス・キリストを信じる者の群れにふさわしいことだろうか、いや、それはまったく信仰から生まれてくる行為ではないとヤコブは言うのです。

ヤコブが挙げる一例のようなことを行っている教会は明らかに富める者への迎合と貧しい者への排除という論理で動いている教会です。金銭や身なりや社会における立場が神の前でその人の価値の違いを生み出すことはないのだということを、私たちはこの一つの例から解説を必要としないほどに理解することができるのではないでしょうか。

どうしてこういう不公平や人を偏り見ることが教会において許されないのでしょうか。

それは当然ではないかと言えばまさに当然のことですが、今二つの面からそれを考えてみましょう。

第一は神御自身が人を偏り見ることをなさらないお方だからです。例えばヨブ記の34章の19節に、神は「身分の高い者をひいきにすることも 貴族を貧者より尊重することもないお方」だとあります。

また申命記の10章の17節から18節にこうあります。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」

新約聖書においても、例えばパウロは「神は分け隔てなさいません」ということを繰り返し語っています。ローマの信徒への手紙の2章の11節やガラテヤの信徒への手紙の2章の6節をあとで確認してください。

このように、神は人を社会的地位やこの世に対する影響力や知名度などによって人を分け隔てすることをなさらないお方であるということが旧約、新約を通して一貫して示されています。

だからこそ私たちも神の救いの恵みの中に入れられたのではないでしょうか。人を偏り見ることをなさらないお方であるからこそ、この私も神の恵みによって救いへと入れられるのではないでしょうか。

人を分け隔てすることは人を偏って御覧にならない神への不信仰の表れであり、その神によって罪ある者が赦されるということの否定に結びつくという重大な過ちを犯すことになるのだということを、私たちは心に刻んでおかなければなりません。

不公平や人を偏り見ることが教会において許されない第二の理由は、教会はイエス・キリストの体だからです。エフェソの信徒への手紙の1章の23節にこうあります。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」

教会の中には社会的な立場や影響力などにおいて異なる人々がいます。あるいはそういうことにまったく無関係の人々もいます。様々な人々が教会には集められています。様々な人々が礼拝者として新たにやって来ますし、そして教会員とされます。しかし、そこで人を分け隔てし、偏り見ることは教会がイエス・キリストの体であるという教えから大きく外れていくことになります。とりわけ貧しさや弱さのゆえにこの世での苦しみを人一倍味わっている人が教会に来て慰めや希望を見出そうと願っているのに、その教会においてさらに屈辱的なことを味わうことがあるとするならば、その教会は果たしてイエス・キリストの体なのだろうかと問わなければなりません。教会はそういう人々にとって慰めの場、希望と交わりの場所であるべきはずです。そう願いつつ来たのに、この世以上に屈辱と痛みを受けることがもしあるとするならば、それはイエス・キリストの体なる教会なのだろうかとヤコブは問いかけているのです。

コリントの信徒への第一の手紙の12章の20節から22節にこうあります。「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」

教会は神によって罪赦されたということにおいてすべて等しい者たちが各部分の働きをすることによって一つの体を造り上げていきます。その点から考えても、人を分け隔てすることのない教会であること、それがイエス・キリストの体である教会であり、それが人を分け隔てすることのない神がお立てになった教会の姿なのです。

 

ヤコブはこれらの問題をまだまだ手紙の中で取り上げています。それを通しても、私たちは真実の教会、栄光に満ちたイエス・キリストの教会の真実の姿を示され、それにふさわしいものへと近づいていくことを共に祈り求めていきたいと思います。