「あなたを罪に定めない」

                      ヨハネによる福音書8111

                                                  水田 雅敏 

 

今日私たちに与えられた聖書の箇所はヨハネによる福音書の8章の1節から11節です。改めてこの話の筋を追ってみたいと思います。

主イエスはエルサレム神殿へ朝早くやって来られました。大勢の民衆が主イエスのところへ来たので、主は腰を下ろして教え始められました。

そこへ律法学者たちやファリサイ派の人々が一人の女を連れて来ました。そして、主イエスに向かってこう言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

彼らは主イエスの判断を仰ぐために、このような質問をしたのではありません。主イエスを試して、訴える口実を得るためです。一種の罠だったのです。

ここで、もしも主イエスが「その女を赦してやりなさい」とおっしゃれば、「モーセの律法を無視するのか」ということになります。そうかといって、「そんな女は、石で打ち殺せ」とおっしゃれば、民衆の心が主イエスから離れてしまいます。主イエスがどちらに答えても、彼らにとっては都合のいいことになると考えたのでしょう。

「モーセの律法」というのはレビ記の20章の10節のことでしょう。そこにはこう記されています。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」

この言葉で印象深いのは、姦淫は男女が同等に罰せられることが明記されていることです。しかし、実際には女性ばかりが裁かれることが多かったようです。日本でも戦前には姦通罪というのがあったそうですが、それは女性だけに適用されたようです。そうした男女差別が、ここにも入り込んでいるのです。

律法学者たちやファリサイ派の人々は主イエスが答えるのをじっと待っています。「さあ、どう答えるか」と勝ち誇ったような気持ちでいたのではないでしょうか。

しかし、主イエスはすぐにはお答えになりません。座ったまま地面に指で何か書き始められました。

何を書いておられたのでしょうか。何も記されていないので分かりません。それほど重要なことではないのでしょう。あるいは沈黙そのものに意味があるということも言えるでしょう。

私はむしろこの沈黙にこそ何がしかのメッセージを感じます。特に、「姦通の現場で抑えたというのであれば、どうして女だけを連れて来たのか。そこには男もいたはずではないか。男のほうはいったいどこにいるのか。モーセの律法に従うというのであれば、男と女が同等に裁かれるべきではないか」、そういう抗議を感じるのは私だけでしょうか。

主イエスが十字架にかかられる前、ピラトの裁判を受けた時も、主はじっと沈黙しておられました。沈黙には沈黙のメッセージがあるのです。

主イエスはじっと黙ったまま何かを書き続けられます。律法学者たちやファリサイ派の人々はしつこく主イエスに問い続けます。主イエスはとうとう身を起こして、こう言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

これは誰も予期していなかった言葉でした。きっと小さな声であったでしょう。しかし、そこには、聞く人に有無を言わせないほどの迫力がありました。誰もこの言葉に対して反論することができません。

主イエスは再び腰を下ろして、また地面に何か書き始められました。その間に今か今かと主イエスの答えを待っていた人々が、一人去り二人去りして、最後には誰もいなくなってしまいました。

私たちは、他人の欠点や過ちや罪というのはよく見えても、自分自身のことはなかなか見えないものです。見えないにもかかわらず見えていると思い込んでいます。勝手に自分で、もみ消して、ないもののようにしています。自分の罪は棚に上げて、他人を責めてその罪を裁こうとします。ところが、一番の問題は自分自身の中にあるのではないか。そういう問いかけです。

よく言われるように、私たちが誰かを指さして「お前が、お前が」と言う時には、あとの三本の指は自分自身を指しています。主イエスのなさったことはそれに通じるものでしょう。

これは、相手の悪いところを改めさせるために何もしてはいけない、忠告してもいけないというようなことではありません。それが本当に通じるためにも、その前にすることがあるではないかということです。相手の負い目を共に担っていくという姿勢において、初めて、相手に対する言葉も聞かれるということです。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が」という言葉が、不思議に人々の心に響きました。彼らの良心を呼び起こしたのです。石を握り締めていた彼らの手がだんだんと下がっていきました。そういう意味では、律法学者たちやファリサイ派の人々にしても、まだ良心のかけらが残っていたと言うことができるでしょう。

ここで、年長者から始まって一人また一人と立ち去っていったというのは、興味深いことです。年を経た者ほど自分の罪のことをよく知っていた、自分には石を投げる資格がないということを悟っていたということではないでしょうか。そして、その年長者の姿を見て、若い人も、自分にもその資格がないということを悟っていったのです。

主イエスの言葉は、「あなたには、その資格があるのか」と問いつつ、「本当にこの女を裁くことができる者は誰か」ということを指し示しています。人々の中にはその資格のある人は誰もありませんでした。

最後に残ったのは主イエスとこの女だけでした。主イエスは彼女に問いかけます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

彼女が「主よ、だれも」と言うと、主イエスは言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

罪を裁くことのできる唯一のお方がここにおられます。そして、そのお方は「わたしもあなたを罪に定めない」と言われました。主イエスは彼女の罪を水に流してしまったり、もみ消したりしようとしておられるのではありません。また逆に、律法を否定したり、無視しようとされたりしたのでもありません。罪は罪として、律法は律法として、厳然と存在します。それを曖昧にすることはできません。罪の赦しということと、罪を認めるということは、違うということを心に留めなければなりません。

ドイツの神学者のボンヘッファーという人が「安価な恵み」と「高価な恵み」ということを言いました。

「罪をそのままでいい」というのは「安価な恵み」です。

主イエスの恵みというのはそうではありません。罪の赦しというのは「高価な恵み」です。そこには主イエスの御業、十字架へと繋がっていく御業が背後にあるからです。「わたしもあなたを罪に定めない」というのは、「その裁きはわたしが引き受ける」ということなのです。罪は裁かれなければなりません。罪が徹底的に裁かれて、その中から赦しの宣言がなされるのです。

この罪の赦しの言葉が語られる時、その罪に対して確かに血が流れています。ところが不思議なことに、それが、この女の身の上に起こるのではなく、彼女とここで向き合って身を起こして立ち上がられた主イエスの上に起こります。主イエスの十字架の上に血は流されるのです。

この時には主イエスはまだ十字架におかかりになっていません。しかし、既にはっきりと十字架を見据えておられたと思います。「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉にはそれだけの重みがあるのです。

 

私たちはキリスト者として生きる時に、どちらかと言えば、律法学者たちやファリサイ派の人々のように人を裁いてしまうものです。主イエスはそのような私たちの思いを身に引き受けて、私たちの間違いを正しながら、十字架にかかってくださいました。私たちは今日そのことを深く心に受け止めたいと思います。