「御心に生きる生活」

              ヘブライ人への手紙132025節 

                                  水田 雅敏

 

ヘブライ人への手紙をしばらくご一緒に学んできましたけれども、今日がその最後になります。

この手紙の著者は22節にこう語っています。「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください。実際、わたしは手短に書いたのですから。」

「勧めの言葉」と訳されている言葉がありますけれども、これのもと言葉は「慰めの言葉」と訳すこともできますし、「励ましの言葉」と訳することもできます。あるいは「説教」と訳してもよい言葉です。

そのあとに、「実際、わたしは手短に書いたのですから」という言葉がありますけれども、これが何を意味するのかについては様々な解釈があります。

例えば、ある人はこう言います。昔から牧師の説教は長いとそれだけで嫌がられるということがあったらしい。「こんな長い説教を書いて」などと思わないでください。これでも短く書いたのですから。ここにはそういう思いが込められているのではないかというのです。

そこである人はこの手紙の初めから終わりまで自分が説教するように読んで時間を計りました。すると一時間ほどかかったといいます。そこで私はこういうことを思いました。この手紙、実際には一時間ほどで語ることができたかもしれない説教を、私たちはどのくらいの時間をかけて学んできたのだろう。ここにこの手紙の著者がいたら驚くかもしれない。自分が書いた言葉についてそんなにまだ語ることがあったとは、と。

それは、それだけこの手紙の著者が、溢れ出てくるものをここに集中して書いたということです。それを聞き取ってほしい。あなたがたの慰めとして、励ましとして、受け入れてほしい。そういう願いがこの言葉に込められているのではないかと思います。

そのような溢れ出る恵みの言葉を語り続けてきて、20節から21節で祝福の言葉を語っています。

これは説教として当然のことだと思います。私たちも、説教にすぐに続けてではありませんけれども、礼拝の最後に祝祷をもって終わります。祝祷というのは祝福を祈ることではありません。神の祝福をここにいる全ての人の存在の上に置くことです。皆さんは神から祝福された存在としてここから出て行くのです。

その祝福は「平和の神」を呼ぶことから始まります。

20節にこうあります。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が」。

祝福をもたらしてくださるのは平和の神です。「平和」は「救い」と同じ意味を持っています。救われるということは平和に生きることです。平和とは神そのものです。神が私たちと共にいて、私たちと平和な関係を造り、私たちの生活の中に送り出してくださるのです。

この「平和の神」とは誰かを語ろうとする時、まず何よりもそこに浮かび上がってくるのは「主イエスを、死者の中から引き上げられた」神です。

「主イエスを、引き上げられた」とはどういうことでしょうか。

それはここに「死者の中から」と書かれていますから、まず、「復活」を意味します。神は主イエスを復活させられたということです。

けれども、「主イエスを引き上げられた」とはそれだけではありません。

この手紙の著者は1章の3節でこういう言葉を語っています。「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きなりました。」

つまり、「引き上げられた」というのは主イエスを神の右の座にまで一気に引き上げてくださったという神の激しい動きをも語っているのです。

主イエスは神の右に座して何をしておられるのでしょうか。

私たちのために執り成していてくださっています。

ここでもう一つ参考にしたいのはローマの信徒への手紙の8章でパウロが語っていることです。ローマの信徒への手紙の8章の34節にこうあります。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」。

復活させられた主イエスが神の右に座っていてわれわれのために執り成していてくださるので、もう誰もわれわれを罪に定めることはできないとパウロはいいます。そのようにして、神の右に座しておられる主イエスの御業を語っているのです。

ヘブライ人への手紙の著者もまた、そのような引き上げられた主イエスを暗に示しながら、この主イエスを引き上げられた平和の神からあなたがたに祝福があるようにと告げるのです。

そして、その祝福の言葉に「永遠の契約の血による羊の大牧者」という言葉を付け加えています。「永遠の契約の血」というのは、十字架の上で主イエスの血が流された、主イエスの命が注がれたということです。そのことによって神と私たちとの間に永遠の契約の絆が結ばれたということです。

「羊の大牧者」とありますけれども、この「羊」とは私たちのことです。「わたしたちは主イエスの羊」という信仰の告白がここに言い表されているのです。その主イエスを神は天にまで引き上げてくださったのです。

では、その神に何をしていただきたいと私たちは願うのでしょうか。何をしていただくことが祝福なのでしょうか。

21節にこうあります。「御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。」

「備えてくださるように」とあります。

ある人がこの言葉を次のように譬えています。子供が小学校に入学する時、多くの人はランドセルを買います。その子供が毎日、学校に行くようになります。親が一生懸命ランドセルを整えて、中身を点検して、忘れ物がないかと調べて、着るものも着せて、ランドセルを背負わせ、靴を履かせて、玄関の外にまで送っていきます。そして、身なりを全部整えた子供のランドセルの背中をポンと叩いて、「さあ、これでいいよ。行ってらっしゃい」と送り出します。

「備える」というのは、このように親に準備を整えられて出て行く姿に似ているというのです。神が皆、準備してくださるのです。すべての良いものについて備えてくださるのです。もうこれで大丈夫だと言って送り出してくださるのです。

これで、大丈夫と送り出されて、私たちは何をするのでしょうか。

御心を行います。そのために神はすべての善き備えをしていてくださるのです。

言い換えると、祝福によって送り出されて生きる私たちの生活は御心を行う生活だということです。「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」という主の祈りが、そこで私たちの行為となって現れるのです。

そこに祝福された者の歩みがあるとこの手紙の著者はいうのです。そのように励ますのです。慰めるのです。それはあなたにもできることなのだというのです。

神の御心に生きるということ、それは神と一緒に歩むということです。ここまでは神がやってくださったから、そこから先は私たちがやろうというのではありません。主イエスを引き上げてくださった神の御業が、そのように私たちの歩みを造り、私たちを支えるものとなるのです。

21節にこうあります。「栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」

 

この「アーメン」という言葉を聞いた時、この手紙の読者たちは思わず「アーメン」と言ったと思います。私たちも心の中で「アーメン」と言って、この手紙を読み終わりたいと思います。