の貧しさによって 

                       コリントへの信徒への手紙二 8章8~9節

                                                    水田雅敏

 

 9節に、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とありますが、パウロは何を言おうとしているのでしょうか。

ここで参考になるのはフィリピの信徒への手紙の2章です。その6節に、「キリストは、神の身分でありながら」とあります。これは「主は豊かであったのに」という言葉と響き合う言葉です。つまり、「主は豊かであったのに」というのは、「主は、神の身分でありながら」ということです。主は神の身分でありながら、あなたがたのために貧しくなられたとパウロは言うのです。

では、主は貧しくなられたとはどういうことでしょうか。フィリピの信徒への手紙2章の6節に、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」とあります。つまり、主は貧しくなられたというのは、主が自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたということです。

さらにフィリピの信徒への手紙の2章の8節には、「それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。主は自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ、十字架の死に至るまで従順であった。これは大変驚くべきことですが、豊かな者から貧しい者になることにおいて、これ以上のことはありません。ここに私たちの信仰の中心があります。

神が人間となられたということは、分かりにくいことかもしれません。神が人間になられたのは、神が人間にならなければならなかった特別の事情があったからです。それは私たち人間の罪を救うためです。そのために、主は人間となり、十字架の上で死なれたのです。「あなたがたのために貧しくなられた」というのは、そういうことを言っています。

主の十字架、それは恥の極み、不名誉の極みです。なぜならそれは罪が持つ一切の貧しさをその身にかぶることだからです。罪というのは、人によっては美しいもの、豊かなものに見えることがあります。だから多くの人が今も罪に引きずられていくのでしょう。しかし、罪は最も貧しいものです。なぜなら、罪は神の前に人を立たせることができないからです。 

では、主が十字架の上で死なれたことによって、どういうことが起こったのでしょうか。今日の聖書の9節に、「それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」とあります。主が十字架の上で死なれたのは私たちが豊かになるためです。豊かになるというのは、経済的に豊かになるということではありません。救われるということです。救われるゆえに、神の恵みに富むことです。主が十字架の上で死なれたことによって、私たちは神の御前において富む者となったのです。だから、もはや魂の貧しさを感じることがないのです。心安らかに過ごしていられるのです。そのゆえに、他者を顧みることができるのです。愛に生きることができるのです。