「今も生きておられる方」

          ルカによる福音書24112節 

                   水田 雅敏

 

イースター、おめでとうございます。神の祝福が皆さんにありますように。

イエスの墓がどこにあったのか、このことは初代教会においてかなり早い時点で忘れ去られてしまった問いだったようです。イースターの朝、イエスの墓の中には何もなかったということがイエスの復活の証しとして福音書に伝えられていますが、墓そのものに興味を持ち続けた人はいなかったのです。

キリスト教の信仰の中心にはイエスの復活があり、それを覚えて行われるのがイースターの礼拝であり、日曜日ごとの礼拝です。けれども、このイエスの復活ほど分かりにくいものはないかもしれません。死者の復活という受け取りようによっては不気味にも感じられるようなこの出来事を、私たちキリスト者は欠かすことのできない信仰として告白し続けてきました。キリスト教信仰の中心と言われながら、なかなか理解しにくいこの問題について、今日改めて考えてみたいと思います。

まず最初に、復活というとき、しばしば誤解されることについて考えてみましょう。それは復活を無限の長生き、あるいは死なないこととして受けとめるという誤解です。かつて人生50年と言われていたものが、今日の日本では70年になり、80年になり、90年になろうとしています。これがどこまで延びるのか分かりませんが、復活ということをこのように人生の月日が延長されていくことと考えるのは誤解と言わなければなりません。

そもそもそういった無限の長生きとか死なないことが人間にとって本当に望ましいことなのかどうか、よく考えてみる必要があると思います。

旧約聖書のコヘレトの言葉の4章の2節から3節にこういう言葉が書かれています。「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。」

これはまさに人生には意味がないと言っているのも同然のように聞こえます。古代の世界とは状況が違うとはいえ、単純に「無限の長生き」や「死なないこと」を理想化したり、望ましいことと見なすだけでは済まないというのが現代に生きる私たちにとっての問題なのではないでしょうか。

いずれにしても、私たちの生というものは長さや量を決定的な尺度とすべきではなく、質を尺度とすべきものだと言えるでしょう。もっともその質を測る尺度にしても人によっていろいろな尺度がありますから、一様にどういう尺度がよいかを決定するわけにはいきません。また、人生のある時期には有効だと思われた尺度が、別の時期、別の状況のもとでは役に立たなくなってしまうということも起こります。

ルカによる福音書には「愚かな金持ちの譬え」が書かれています。12章の16節から20節です。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。<さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ>と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」

アメリカのマーティン・ルーサー・キング牧師はこの譬え話を取り上げた説教の中で、この男の愚かさを三つの点から語っています。

第一に、この男が愚かだったのは自分の生きる手段であったものを生きる目的と混同してしまったからだと言います。人は食べなければ死にます。けれども、食べることだけが目的になるとき、その人生は本末転倒したものになるのです。

第二に、この男が愚かだったのは自分がほかの人々に依存しているということが分からなかったからだと言います。「私」は「私たち」という交わりの中でこそ人間らしくなれるということを忘れるとき、人生は自己中心的なものとなるのです。

そして第三に、この男が愚かだったのは自分が神に依存しているということが分からなかったからだと言います。あたかも自分の力で季節を変え、自分の力で作物を育てたかのように思い違いをし、創造者のごとくに振る舞う傲慢な存在であっても、実は人間というのは神の被造物の一つに過ぎず、その生涯は神の御手のもとにあるのです。

キング牧師はこのような三つの愚かさをもって生きていたこの男についてさらに次のように語っています。「この男は肉体的には死ななかったとしても、霊的にはもう死んでいたのである。」

人生の目的と手段とを取り違えるとき、私たちはもう死んでいるのです。自己中心的な姿勢だけで世界に向き合うとき、私たちはもう死んでいるのです。そして、私たちがすべてを依存する方、私たちに命を与えてくださった方、そして、やがて再び御もとへと招いてくださる方である神を見失うとき、私たちはもう死んでいるのです。

イエスはこうした愚かさから私たち人間を救うためにやって来られました。そして、生きるとはどういうことかということを教えてくださいました。イエスによれば、人間が生きるということは人と人とが愛し合い、分かち合い、支え合って、人と人との交わりに生きるということです。そこでは、私の隣人は私の手段ではなく、私が操作したり利用したりする対象ではありません。そして、このような生き方を根底で支えてくれる方こそ、愛の源であり命の造り主である神御自身だということを、イエスは教えてくださいました。

イエスはこの二つのこと、人と人との交わりに生きることと神のもとで生きることが一体となって切り離すことができないものであり、この二つを同時に生きるとき、私たちは本当の意味で生きるのだということを教えてくださったのです。

ヨハネによる福音書の11章の25節でイエスはこう言っておられます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

キリスト教の信仰において決定的なことは復活された方がイエスだったということです。神への愛と隣人への愛を最初から最後まで生き抜かれた方が復活されたということこそ復活信仰の中心なのです。

私たちがキリスト者であるということ、私たちがキリスト者になるということはこの神への愛と隣人への愛を生き抜かれた方を受け入れ、この方に従って生きるということです。そして、そのような志を同じくする仲間と共に生きるということです。そういう意味で、復活というのは神と隣人を愛し、その愛によって生きる者に与えられる新しい交わり、新しい関係のことだと言うことができます。復活というのは今ここに生きている私たちの間で既に始まっており、私たちの死のあとにも続いていく、主にある愛の交わりのことなのです。

始めに言いましたようにイエスの墓がどこにあったのかということを最初のキリスト者たちは早々と忘れ去ってしまいました。しかし、それは正しい態度でもありました。なぜなら、生きておられる方を死者の中に捜す必要はないからです。イエスは今もなおわたしたちとの愛の交わりを通して共にいてくださる、人と人との関わりの中で、そしてわたし自身の中でイエスは生きて働いておられる、これこそ最初のキリスト者たちが持った確信であり、この確信こそが彼らを伝道の業へ、また奉仕の業へと送り出す原動力だったのです。

イエスを信じる人たちの集い、イエスに従う人たちの愛の交わりの中にイエスは共におられます。また、私たちがイエスに従って神と隣人とに仕えるとき、その働きの中にイエスは共におられます。私たちがイエスに連なって生きるとき、まさしくそのようなときに、私たちは復活を味わい知ることになるということを、この朝、深く心に留めたいと思います。