「イエス、涙を流す」

                                              ヨハネによる福音書112837

                                                                                                              水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の11章の28節から37節です。

前回はマルタと主イエスの会話でしたが、それに続いてマルタの姉妹マリアが登場します。

マルタは外で主イエスと話したあと、家に帰ってマリアを呼びに行きました。そして、そっと彼女に耳打ちしました。「先生がいらして、あなたをお呼びです。」

おそらくマリアはそれまでずっと泣いていたのでしょう。主イエスを迎えに行くためにマルタが出て行ったことさえ気づかなかったかもしれません。あるいは分かっていたけれども体が動かなかったのかもしれません。しかし、彼女はマルタの言葉を聞くと、すぐに立ち上がり、主イエスのもとに行きました。

「主イエスが来られた」という言葉だけでは動けなかったマリア。しかし、「主が、あなたをお呼びです」という言葉が彼女を動かしました。

これは私たちにとっても同じではないでしょうか。「主イエスが来られた」というのはクリスマスのメッセージですが、まだこれだけでは一般的な言葉です。しかし、「主が、あなたのために来られた」、「主が、あなたを呼んでおられる」、この言葉に私たちは動かされていくのです。

名を呼ばれるということは私たちの人生において何度も体験することです。生まれた時に親に呼ばれ、学校に行って教師に呼ばれ、友だちからも、職場の仲間からも、名を呼ばれるようになります。そのようにして名を呼んでくれる人と言葉を交わし、その人々に支えられ導かれて生きていきます。

その中で私たちが何よりも聞かなければならないのは主イエスが呼んでくださる声です。私たちはイースターの時やクリスマスの時などに、「洗礼式を行うので、これを志す方は申し出てほしい」と週報に書かれているのを読みます。こういう呼びかけを、どれだけの方が自分への語りかけとして受け止めておられるでしょうか。主があなたの名を呼んでおられるのです。

そして、マルタのように、私たちはその人の傍らにいて、「主があなたを呼んでおられる。どうぞ、主のところに行ってほしい」と声をかけます。それが伝道をするということです。

マリアは主イエスを見るなり足もとにひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。

これはマルタが主イエスに語ったのと同じ言葉です。ただマルタの言葉には続きがありました。おそらくマリアの場合は、この言葉を言うのが精一杯で、あとは泣き崩れて言葉にならなかったのでしょう。

ところが、ヨハネによる福音書はその先に次のような言葉を書いています。33節です。マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、主イエスは心に憤りを覚えられたというのです。

主イエスはいったい何に対して心に憤りを覚えられたのでしょうか。

いろいろな解釈があります。今日は四つご紹介します。

第一は、物語の流れからすると、マリアやユダヤ人たちがめそめそ泣いているのに憤られた、と読めそうですが、そうではないでしょう。なぜなら、このあとで主イエスご自身も涙を流されるからです。みんなが泣いていることに憤りを覚えられたのであれば、主イエスご自身が泣かれたことは自己矛盾になってしまいます。

第二に、「心に憤りを覚え、興奮して」という所を、口語訳聖書では「激しく感動し、また心を騒がせ」と訳しています。この訳だと、マリアたちがそれほどラザロを愛していたのかということに主イエスが感動した、というふうに読めそうですが、主イエスはそういう意味で感動されたのでしょうか。「心に憤りを覚え」と「激しく感動し」では反対の意味にもなりかねないほど違います。

第三に、この「心に憤りを覚え」という言葉は38節にも繰り返されています。「イエスは、再び心に憤りを覚えて」。

この38節の言葉はその前の37節の言葉を受けている、と読むことができます。「しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。」「生まれつき目の見えない人の目を開けることはできたけれども、さすがに死んだ人を復活させるということはできなかったのか。イエスという方も結局は死に対しては無力だったのか」と疑う人がいたのです。そういう心に代表されるような不信仰に対する憤りがここにある、と理解するのです。

そして第四は、この主イエスの憤りはこのように人々を苦しませ、恐れさせ、深い悲しみに落とす死の力、闇の力に対する憤りだったのではないか、という理解です。愛する者たちを脅かす死、あるいはまた、その死の背後にある闇の力に対して、厳しい対決の心を主イエスの憤りは示しているというのです。

皆さんなら、どのように理解されるでしょうか。

いずれにしても、主イエスの心がグッと動かされた、揺さぶられたことは確かです。

そして、「どこに葬ったのか」と問われたあと、主イエスご自身も涙を流されました。

主イエスは何でもできる方、人間を復活させることもおできになる方であるならば、人間的な感情も超越したお方であるかのように私たちは思うかもしれません。しかし、そうではありません。主イエスは悲しむ者、苦しむ者と共におられる方であり、自ら涙を流されるお方なのです。

35節の「イエスは涙を流された」という言葉は聖書の中で最も短い聖句として有名です。原文のギリシア語ではたった二つの言葉、「イエスは」「泣いた」という単純な表現です。主イエスが人間の悲しみに合わせてその傍らに立ち、一緒に泣いてくださるのです。一見、神の御子にふさわしくないような姿ですが、しかし、何と深い慰めに満ちていることでしょうか。

泣くというのは好ましくない行為として考えられることが多いのではないでしょうか。しかし、泣きたい時には泣くほうがよい、無理に抑えないほうがよいと私は思います。

創世記の23章にはアブラハムが愛する妻サラを失った時の話があります。アブラハムはサラが死んだ時に胸を打って泣きました。

そしてその続きには「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ」と記されています。

アブラハムは、いつまでも泣いているのではなくて、そのあとに立ち上がりました。しなければならないことがあったのです。それはサラの埋葬のために墓の土地を手に入れることでした。彼は寄留者だったので、どこにも土地を持っていなかったのです。

アブラハムはサラの遺体を前にして思いっきり泣いたと思います。泣く必要があったのです。

聖書は私たちがそういう感情を出すことを否定していません。むしろ肯定し、受け止めてくれています。主イエスご自身が共に涙を流しながら私たちの気持ちを受け止めてくださるのです。

主イエスは私たちと共にお怒りになり、お喜びになり、涙を流され、笑われるお方です。聖書の中には不思議なことに「主イエスが笑った」という記述は出てきません。しかし、まことの人間として生きてくださったお方であれば、私たちと同じように大笑いをなさったこともあるに違いありません。

 

私たちもそのような感情、感動を、大切にしていきたいと思います。「心に憤りを覚えた」「激しく心を動かされた」。信仰も、伝道も、そこから始まり、そこから進んで行くのです。