「命の主イエス・キリスト」

                      ヨハネによる福音書51730

                                                   水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の5章の17節から30節です。

ここは、何かの出来事ではなく、イエス・キリストの説教とでも言えるような長い話ですが、イエス・キリストがどういうお方であるかということが、よく示されている箇所です。

今日はこの箇所を通して、イエス・キリストがどういうお方であるかということを、三つの点からお話ししたいと思います。

第一は、イエス・キリストは父なる神と一体のお方であるということです。

19節から20節でイエス・キリストはこうおっしゃっています。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」

神は御子イエス・キリストを愛して、御自分のなさることを全て御子にお示しになり、御子も神がなさることは何でもその通りにするというのです。

この言葉はユダヤ人たちを大変驚かせ、躓かせたことでしょう。ユダヤ教では、どんなにすぐれた人間であっても、神との間に一線が引かれていたからです。この世に生を受けた人間が神の御子であり、神に等しい者であるということは、とても考えられることではないし、許されることではありませんでした。それは神に対する冒涜でした。

しかし、そこにこそキリスト教のキリスト教たるゆえんがあります。そこがキリスト教が他の宗教と違う点なのです。キリスト教においてイエス・キリストというお方は単なる一人の預言者ではありません。確かにイエス・キリストは神の真理を指し示すすぐれた預言者でした。神の意志を人々に伝えるすぐれた器でした。しかし、イエス・キリストというお方は、神の真理を指し示しながら、同時にご自身が指し示される存在でした。

ヨハネによる福音書の14章の6節でイエス・キリストはこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

ここで語られている「道」というのは神の御もとに至る道ですが、その「道」そのものであるイエス・キリストが同時に「真理」そのものであり、「命」そのものなのです。

旧約の預言者たちをこの世に送り続けてくださった神は、最後に御自分の独り子イエス・キリストをこの世に送ってくださり、「ほら、ここに道がある。これを通りなさい。ほら、ここに真理がある。これに至りなさい。ほら、ここに命がある。これに与りなさい」と私たちに指し示してくださったのです。

第二は、イエス・キリストは復活させられたお方であり、同時にまた私たちを復活させてくださるお方であるということです。

先ほど読みました20節は次のように続いています。「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」

「これらのこと」というのは、前回私たちが学びました、イエス・キリストがベトザタの池のほとりで、歩けなかった人を起き上がらせて、歩けるようにさせられたことです。そこでも言いましたが、「起き上がる」という言葉は「復活する」という言葉と同じ言葉です。つまり、歩けなかった人を立ち上がらせたあの出来事は、死者の復活をも指し示していたのです。

24節でイエス・キリストはこうおっしゃっています。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」

ここで語られている「死」とか「命」というのは、私たちの肉体的な死や命ということを超えたものを指し示しています。

聖書が言う「命」というのは神と繋がっている状態のことです。逆に、「死」とは神から切り離された状態のことです。ですから、私たちが肉体的な死を経験していても神と繋がっているならば、「命」は途絶えないのです。逆に、肉体的には生きていても、心臓や脳が動いていても、神から切り離されているならば、それは死んでいることになります。

しかし、そのような人もイエス・キリストに繋がることによって復活します。死すべき存在であっても、死んだのと同じ状態であっても、命の中に入れられる、死から命へと移されるのです。それが聖書の語る真理です。

25節ではこうおっしゃっています。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」

これは聖書の時代を超えて私たちに告げられたイエス・キリストの約束です。「わたしに繋がる時、あなたは命を得ることができる」と一人一人に呼びかけておられるのです。

第三は、イエス・キリストは裁きの権能を父なる神から授かっておられるお方であるということです。

27節から29節にこうあります。「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」

この言葉は私たちを戸惑わせるかもしれません。それは、一見すると、善いことをした人間は天国に行き、悪いことをした人間は裁かれて地獄へ行くという、いわばどこの国にでもある因果応報の考えを表しているように見えるからです。

確かにそのことと無関係ではありません。私たちはそのように自分の生活と行いを神の裁きという視点から見ておかなければならないでしょう。

しかし、そういうことを前提としながら、聖書のメッセージはそうした考えを超えているのです。聖書は、人間の行った善いこと悪いことを天秤にかけて、善いことのほうが重かった者を天国へ送り、悪いことのほうが重かった者を地獄へ送るという考えではありません。むしろ、そのようにするなら、だれ一人として救われる者はいないということをはっきりと告げています。だれ一人として裁きを免れえない、だれ一人として救われないというのです。

しかし、そこで私たちのそのような罪をイエス・キリストが背負い、十字架にかかって死に、私たちが受けるべき裁きをお受けになりました。それによって私たちは神と和解することができた、神と仲直りすることができた、そのようにして私たちは神と向かい合うことを許されたのです。

けれども、私たちはそのイエス・キリストの恵みの御業を単純化して、あるいは小さくして、「だからキリスト者は天国へ行くことができる。そうでない者は天国へ行くことができない」というふうに理解してはなりません。なぜなら、だれが天国へ行くか行かないかを決めるのは私たちではないからです。それは神がお決めになることです。ここの所の言葉で言えば、イエス・キリストにその権能が授けられているのです。

確かに24節の言葉、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」という言葉は、そのまま信じてよい言葉です。それは私たちに与えられたイエス・キリストの約束です。そして、私たちはそのように生きるように促されていることも確かです。

しかし、実際にはそのように導かれずに死んでいった多くの人々を私たちは知っています。そうした人々はいったいどうなるのだろうと多くの人は思うでしょう。私もふと思います。しかし、私はそのような人々も全てイエス・キリストの御手の中に置かれていることを信じたいと思います。なぜなら、イエス・キリストは全ての人のために祈り、全ての人のために十字架にかかられたお方であるからです。

イエス・キリストは、十字架の上で死んでいきながら、ご自分に敵対し、ご自分を十字架にかけた人々のために、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。それが最後の切実な祈りでした。

その祈りが空しく終わるということは私には考えられません。また、イエス・キリストがそのように十字架の上で広げられた両手の中に入り切らないような滅びの世界があるということも考えられません。

イエス・キリストがそのように祈られたお方であることを知っているからこそ、「子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」という言葉の中に、私は大きな慰めと希望を見るのです。

 

私たちの死と命、それは私たちの手を超えたところで神の御手の中にあり、イエス・キリストの御手の中にあるということを、私たちは今日あらためて深く心に留めたいと思います。