「悔い改めの実」

         コリントの信徒への手紙二 71116節  

                   水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の7章の11節から16節です。

パウロは自分の使命として大事にしていたことが二つありました。一つは和解です。もう一つは慰めです。パウロは和解の福音を宣べ伝えるように神から託されていることを確信していました。そして、その和解が伝えられるところにはいつも慰めがありました。

コリントの教会にも和解の福音が伝えられると、たちまち強い反応がありました。それは、ひと言で言えば、悔い改めです。コリントの教会の人々は悔い改めを改めて経験しました。今さらのようにその大切さを知らされました。

悔い改めというのは人間の思いからすると、嬉しいことではなく、悲しいことです。悔い改めというのは、自分の過ちを認め、神に懺悔することだからです。

そこで、パウロはそれを、今日の聖書の11節の前半で、「神の御心に適った悲しみ」と言いました。

しかし、その悲しいはずの悔い改めが、慰めに代わり、喜びになり、力となりました。

11節の前半にこうあります。神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。」

悔い改めといっても、ただ自分の心の中でひそかに思うだけなら力にはなりません。悔い改めは回心です。自分の心を180度、神のほうに向けることです。そのとき、神の光が私たちの心の中に入ってくるのです。それはちょうど、私たちが太陽のほうに向きを変えて太陽と直面すると、その光の眩しさに目を開けていられなくなると共に、全身に太陽の暖かさを受けるのと似ています。

ですから、そのとき私たちの中には今まで考えもしなかったものをもたらします。

第一は「熱心」です。自分の罪を憎んでこれを熱心に取り除こうとするのです。

第二は「弁明」です。弁明というと自分に罪がないことを言うことのように聞こえます。しかし、それでは悔い改めの反対です。悔い改める人は弁明しません。自分のことを弁護しません。むしろ自分の罪をはっきりさせて、神の憐れみを乞い求めます。

第三は「憤り」です。この憤りは間違っていることに対する怒りです。もちろん、他人の誤りに対する怒りではなく、自分の罪に対する怒りです。

第四に、悔い改めは神に対する「恐れ」をもたらします。それは神に対して恐がることではありません。神を畏れ敬うことです。

第五に、このようにして神に対して正しい態度がとれるようになると、他人に対しても正しい態度がとれるようになります。それが「あこがれ」です。ここではコリントの教会の人々がパウロを慕うようになることをいいます。

第六ですが、こうしてコリントの教会の人々は「熱意」を持つことができるようになります。熱意とは真の願いを持つことです。

ある人が「熱意とは願望の激しいものだ」と言いました。誰でも願いというものを持っています。しかし、その願いが満たされるとは限らないことが分かってくるにつれて、だんだん願いを持たなくなります。それに対して信仰の熱意は決して薄らぐことはありません。なぜなら、神が共におられることを知っているからです。

最後は「懲らしめ」です。この懲らしめも自分に対するものです。それは悔い改めを、より内容のあるものにします。

11節の後半から13節の前半でパウロはこう言っています。「例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。こういうわけでわたしたちは慰められたのです。」

「例の事件」というのは2章の5節から11節にかけて書かれている出来事を指すものと思われますが、具体的なことは分かりません。

パウロはここまでコリントの教会の人々の悔い改めについて語ってきました。悔い改めがどんなに多くの実を結ぶかということについて語ってきました。そのことを明らかにしたので慰めに満たされました。

慰めにもいろいろあります。人の生活は様々な面を持っています。ですから、人はそれぞれに応じて慰めを受けたいと願います。しかし、生きている時も死ぬ時も変わることのない真の慰めは、神と結びついていることです。そうであれば、悔い改めが生み出す慰めこそまことの慰めです。悔い改めというのは神と結びつくことだからです。

この慰めに加えてパウロには「喜び」も与えられました。

13節の後半から16節にこうあります。「この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。」

パウロに与えられた喜びは二つありました。

一つはテトスが持ってきたコリントの教会についての報告です。パウロの書いた手紙がよい結果を生んだのです。

もう一つはテトスがコリントの教会の人々にあたたかく迎え入れられたことです。テトスはパウロの伝道の協力者でしたから、彼を迎えることはパウロ自身を迎えることと同じです。コリントの教会の人々は、テトスに対して従順であるばかりでなく、「恐れおののいて」歓迎してくれました。それは愛と尊敬をもって迎えてくれたということです。

そのことを知ってパウロはどんなに喜んだことでしょう。 

16節でわたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます」と言っています。

 

パウロとコリントの教会の人々との間に神を土台とした信頼関係が生まれたのです。コリントの教会に求めてきた和解がついに成就したのです。神を土台とした信頼関係、ここに、教会生活を営み続ける秘訣があるのです。