救い主の誕生

                                       テトスへの手紙 2章11節

                                                水田雅敏

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」

「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」とはイエス・キリストのことであり、それが「現れました」とは、そのイエス・キリストがこの世にお生まれになった出来事、すなわちクリスマスの出来事を指しています。

 ここで私たちが第一に注目したいのは、「すべての人々」という言葉です。神の恵みはすべての人々に現れた、と聖書は告げています。それは神の恵みを受けるのにふさわしくないものとして退けられる者はただ一人としていないということです。私たちはだれ一人としてこの恵みを受けるにふさわしくないものとして自分自身を見る必要はないのです。私たちはただ感謝をもって、イエス・キリストにおいて差し出された神の恵みを自分へのものとして受けとめることができるのです。

 第二に注目したいのは、「救い」という言葉です。「救い」とは何でしょうか。それは神と人との関係の破れの修復です。人が神に背を向け、神から遠く離れてしまったことによって、この地上にあらゆる悪しき事柄が生じてしまいました。枝が幹から切り離されてしまえば枯れてしまうように、人は神との結びつきを断ち切ってしまうならば、神が与えてくださる平安も喜びも希望も失ってしまいます。それは神から離れた人間の恵みなき状態です。

 そのような人間の世界に、神はイエス・キリストを送ってくださいました。神はイエス・キリストにおいて、人間に対する御自身の交わりの御手を伸ばしてくださいました。そしてその御手によって、すべての人々を御自身のもとに引き寄せようとしておられます。その神の招きと神自らの私たちへの接近こそ、私たちにとっての救いの源です。それは、神との関わりにおける新しい人間性の回復です。クリスマスは神が私たちと共に歩んでくださるとの宣言であると同時に、実際にそのことがイエス・キリストの到来以来、始まっているのです。

 私たちは自分を取り巻く現実が暗く、辛く、悩み多きものとしてしか感じられないことが多いかもしれません。イエス・キリストの誕生以来、神が一人一人と共にいてくださるという現実が始まったと言われても、それは自分とは無関係のことだと受け入れ難く思うことがあるかもしれません。にもかかわらず、神がイエス・キリストにおいて始められたことは、まぎれもない事実なのです。そのことを信じることができるとき、私たちは今与えられている地上のそれぞれの時を生き抜くことができる者とされます。私たちは決して孤独ではありません。私たちは独りぼっちで放り出されているのではないのです。

 

詩編139篇11節に、「闇の中でも主はわたしを見ておられる」とあります。救いとはこのように、私たちが生きる様々な苦しみの中でも、死ぬときも、死んだあとにおいても、復活の主と共に神が私たちの神として一人一人の傍らにいてくださるということです。それはいかなる力によっても壊されることはありません。クリスマスの出来事はその約束の確かなしるしなのです。