「神の時」

                      ヨハネによる福音書2112

                                                   水田 雅敏 

 

今日、私たちに与えられた聖書の箇所はヨハネによる福音書の2章の1節から12節です。小見出しに「カナでの婚礼」と記されています。有名な話ですのでよくご存じの方もあると思います。順を追って見ていきましょう。

ガリラヤのカナという町で、ある人が結婚式を挙げ、その結婚披露宴での出来事です。主イエスの母マリアもそこにいました。彼女がただの招待客であったのか、あるいは主催者側の人間であったのかは分かりませんが、いずれにしても、この新郎新婦、あるいはその家族と、かなり親しい関係だったようです。そこへ主イエスも弟子たちと一緒に招かれました。

ところが、この披露宴でどういうわけかぶどう酒が足りなくなってしまいます。宴会の途中でぶどう酒がなくなるというのはそれを主催した人のメンツに関わることであったでしょう。さあ、これは大変だということになります。人間の準備することというのはどんなにこれで完璧だと思っていても思わぬ落とし穴があるものです。

そこでマリアは息子である主イエスに向かって「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。主イエスであればこの事態を何とか打開できるに違いないと思ったのでしょう。

主イエスはマリアにこう言われます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」何だか冷たく聞こえる言葉です。

この返事を聞いたマリアはどうしたでしょう。「あなた、お母さんに向かって何という口の利き方をするのですか」と言ったでしょうか。そうではありませんでした。召し使いたちを呼んで、そっと、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いました。

しばらくして主イエスがこの召し使いたちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、彼らはその通りにしました。そしてそれを宴会の世話役のところへ持っていくと、水が最上のぶどう酒に変えられていました。世話役は花婿を呼んでこう言いました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

そういう話です。

この話は私たちの信仰生活にとって、特に祈りの生活において幾つか大切なことを教えています。

一つはマリアの態度です。彼女は困った状況を率直に主イエスに告げました。もしかすると、母親の願いであれば聞いてくれるだろうという思いがあったかもしれません。しかし、とにかく、「ぶどう酒がなくなりました」と告げたのです。

これは大事なことだと思います。私たちは謙譲の美徳というものがあるせいかどうか分かりませんが、遠慮深くて、なかなか自分の気持ちを表に表しません。けれども、祈りにおいてまで遠慮深くある必要はありません。

マタイによる福音書で主イエスはこう言っておられます。7章の7節から8節です。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」この約束を信じ、正直に自分の願いを主の前に差し出すことが大切です。それをしないと私たちの中で祈りがくすぶって不完全燃焼になってしまいます。

ただし、そのことは、私たちの祈りがすぐに応えられるということを意味していません。この時のマリアの願いもすぐに応えられたわけではありませんでした。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と突き放されたような言葉が返ってきました。しかし、彼女の願いは主イエスに届いたのです。

私たちも祈りが聞かれていないように思える時も、「とにかく、この祈りは届いている。主が既に聞いておられるのだ」と信じたいと思います。マリアはそれを信じたからこそ召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったのです。

それでは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という約束にもかかわらず、どうしてすぐに応えられないことがあるのでしょうか。それは、祈りが応えられるには、それに最もふさわしい時と最もふさわしい形があるからです。

私たちの期待している時に、私たちが期待している形で、祈りが聞かれるとは限りません。主イエスは私たちの熱い思いを受け止めつつ、最も良い時と最もよい形をお選びになります。この時も主イエスはいったん距離を置きつつ、誰も予想しなかった形で、マリアの期待を遥かに超えた形で、それに応えてくださいました。

神はしばしば時を延ばされます。それは全ての人間的な可能性が終わり、ここから先はもう神の可能性でしかないということが分かるため、つまり、これはもう神が働いたとしか考えられないということが分かって、私たちが神に栄光を帰すためです。

私たちの求めている通りの答えが与えられるとも限りません。先ほど、願いを率直に差し出すことが大事だと言いましたが、その中には私たちのわがままな願いもあるでしょう。もしも私たちのわがままな願い、浅はかな祈りまで全て応えられるとすれば、かえって恐ろしいことになるでしょう。この世界はとっくの昔に滅んでいるかもしれません。神は、私たち以上に、私たちに何が必要であるかをよく御存であって、私たちに最もふさわしいものをもって私たちの祈りに応えてくださるのです。

先ほどのマタイによる福音書の7章で主イエスは次のように言っておられます。9節から11節です。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。」

もしもこれが反対だったらどうなるでしょうか。子供が知らずして石を欲しがって食べようとしたら、あるいは蛇を欲しがっていたら、それをそのまま子供の言うままに石や蛇を与えるのが本当の親でしょうか。神は私たちの祈りを聞きながら、時にはそれを退けながら、最もふさわしい時を選んで、最もふさわしい形をもって、応えてくださるのです。

実際、私たちがこれまでの歩みを振り返ってみる時、神は最もふさわしい時に最もふさわしいものを備えてくださった、私の歩みはそうした神の力によって支えられ導かれてきたということを思わざるを得ないのではないでしょうか。その中には願いが適えられなかったこともあるでしょうし、全く予想せずにそうなったものもあるでしょう。しかし、あとから振り返れば、一つ一つが全て貴重なものであり、大きな意味を持っていたということが分かるのです。

カナでの婚礼の日、マリアは主イエスが必ず何かをしてくださることを信じて、その時を待ちつつ、自分でなすべきことをしました。召し使いたちに主イエスを紹介して、「この方の言う通りにしてください」と言いました。そして、召し使いたちも主イエスが「水がめに水をいっぱい入れなさい」とおっしゃった時、「そんなことをしている場合ではありません。今、わたしたちは必死になってぶどう酒を探しているのです」と思ったかもしれませんが、そのような人間的な思いを捨てて主イエスの言葉に従いました。それを用いて主イエスは大きな奇跡を起こしてくださいました。私たちの教会においても、また私たち一人一人の歩みにおいても、神は、そのように時を定めて、最もふさわしい時に、最もふさわしい形で、御業をなしてくださるのです。

最後に旧約聖書のコヘレトの言葉を読みます。3章の1節から11節です。「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破滅する時、建てる時 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時 保つ時、放つ時 裂く時、縫う時 黙する時、語る時 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」

 

以前の口語訳聖書では、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と訳されていました。そのような神の時を信じて、私たちも歩んでいきたいと思います。