神の言葉として受け入れた

                             テサロニケの信徒への手紙一 2章13~20節

                                               水田雅敏

 13節に「あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」とあります。パウロが語り、テサロニケの教会の人々が聞いた福音は、人の語る、人の聞くことのできる言葉で語られました。それなのにどうしてそれがテサロニケの教会の人々に神の言葉として受け入れられたのでしょうか。それは、神の言葉は、置物のように「ある」のではなくて、「なる」からです。神の言葉で「ある」のでなしに、「なる」ためには、何が必要なのでしょうか。それは聖霊です。人の言葉で語られる説教は聖霊を通してはじめて神の言葉と「なる」のです。

 では、神の言葉を聞く側にはどのようなことが起こるのでしょうか。13節に現に働いている」とあります。これは「力を発揮して活動している」という意味です。ですからそこには御言葉の出来事が起こります。聞く者が、説教を単に耳に聞くだけでなく、それを神の言葉として信じ、受け入れる時、神の言葉は、私たちの内に根を下ろして、私たちの行動を生み出す力となるのです。もちろんそれもまた聖霊の働きなしにはあり得ないことです。

 14節から16節には、テサロニケの教会の人々が、福音宣教のために苦しみをなめ、迫害に遭いながら伝道していったことが示されています。彼らは、テサロニケの市民から苦しめられ、迫害され、福音宣教の働きを妨げられました。しかしこの試練のただ中でこそ神の言葉は正しく聞かれるのです。

 私たちも、イエス・キリストに従おうとするがゆえに、福音を宣べ伝えようとするがゆえに、苦しくて苦しくて、どのように祈ったらよいか分からないような状況に追い込まれる時があります。しかしこのギリギリのところで、人間の言葉が神の言葉として受け入れられるのです。聖霊がそこに働くのです。

 ただし、聖霊が働くとき、サタンも働きます。17節以下でパウロは、テサロニケの教会の人々が迫害を受けていることを知って、彼らを励ましに行こうとしたけれども、その計画がサタンによって妨げられたと言います。

確かにサタンは私たち人間の邪魔をする者です。しかしサタンの働きは宿命や運命ではありません。サタンの働きは、マイナスではありますが、別の見地からみればそれは、私たちの高慢を防ぎ、神の御旨を私たちに知らせる働きをします。パウロは、自分の立てた計画を妨げられて、「いやー困った。大変なことになった。これではまったくどうしようもない。万事休すだ」というようなことは、一言も述べていません。彼は、テサロニケの教会の人々はわたしにとっての誉れであり、喜びだ。彼らの生活を通して神の勝利が具体的に現れている。それらはすべてイエス・キリストの再臨の日に成就するだろうと言います。彼は、テサロニケの教会の人々が受け入れた、神の言葉と共にいる聖霊の力、キリストの力が勝利することを信じてやまないのです。

 

 私たちも、このことを信じ、希望をもって、日々の生活を歩んでいきたいと思います。