「ひとりのみどりごが生まれた」

                          イザヤ書916

                                                   水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はイザヤ書の9章の1節から6節です。ここには救い主誕生の預言が記されています。

この預言が語られた時代背景について、改めて考えておきましょう。

紀元前730年頃、南王国ユダは、大国のアッシリアの脅威と共に、北イスラエルとアラムの連合軍から同盟軍に加わるようにとの圧力を受けるという、もう一つの脅威のもとにありました。そのような中で、恐れ、狼狽する南王国の王アハズに、預言者イザヤは「静かにしていなさい。恐れることはない」と言って励ましました。

それから10年ぐらい経過した時代がイザヤ書の9章の時代です。

この時、既にアッシリアが北イスラエルに侵攻してきて、その領土の一部がアッシリアの占領のもとに置かれていました。その状況を8章の22節から9章の1節の描写によって読み取ることができます。

まず、8章の22節から23節に「苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」といった言葉が並べられています。

また、9章の1節には「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」といった表現があります。

これらのことから、イスラエルの国全体が政治的軍事的な圧迫のもとで精神的にも苦しい状況に追い込まれ、希望を失った暗闇の中に置かれていることを、想像することができます。

神に選ばれた民であり、神から与えられた土地に住んでいる自分たちであるということに、人々は疑いを抱き始め、「わたしこそ、あなたがたの神である」と言われる神への信頼も、大きく揺らぎ始めていました。国が壊滅する危機の中で、神の民として存在し続けることに対する危機感が人々の間に生じていたのです。

それを一人の人間になぞらえて言えば、自分とはいったい何者なのかが分からなくなってきた状況、自分が崩れていく状況に陥っているということになるでしょう。人々は光を失った闇の中で、どうあったらよいかが分からなくなっているのです。

そのような人々に対して預言者イザヤは希望の光を指し示します。それが5節の「ひとりのみどりご」の誕生、「ひとりの男の子」の誕生の預言です。

ここでは、その子が既に「生まれた」とか、「与えられた」というように、過去形で語られていますが、これは、現在において既に起こったということではなくて、これから先、このことが確実に起こる、間違いなくこの通りのことが起こる、ということを言い表そうとしている表現です。イザヤは「新しい王、新しい統治者がこの国に起こり、この方が全イスラエルを守り、闇から光へ、死から命へと変えてくださる」と確信をもって語っているのです。 

ですから、1節で「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と語り、2節で「喜び」、「楽しみ」を語って、苦悩や苦痛や戦いなどからの解放を力強く告げているのです。

3節の「ミディアンの日のように」というのは、士師記の6章の33節以下に記されている記事に基づくもので、神が士師ギデオンを用いて、イスラエルの民を襲うミディアン人を制してくださったことを、指しています。その日のように、神は全てのイスラエルの民を外国の圧迫から解放してくださる。何よりもそのことは、ひとりのみどりご、ひとりの男の子の誕生によって、そしてその方が王に即位することによって、現実のこととなる、とイザヤは預言しているのです。

そのみどりごにやがて与えられる名、それはまたその働きの内容も意味しているのですが、それが5節の後半に四つ挙げられています。それは「驚くべき指導者」、「力ある神」、「永遠の父」、「平和の君」です。

最初の「驚くべき指導者」についてはあとで考えることにして、先に、そのほかの三つについて、ごく簡単に考えてみましょう。

「力ある神」とは、神のような力をもって民を導き、民に勝利を与え、そして救いをもたらすことができる者という意味です。

「永遠の父」とは、父親のように愛と厳しさとをもって、その子らを守り、民を守り、決して見放さない者ということを意味しています。

「平和の君」とは、国の内外において争いや戦いをなくし、繁栄と平和な状況を造り出す者のことです。

このような働きをする方が、わたしたちのために生まれ、わたしたちのために与えられる、その方こそが闇を光に変える救い主であるというのです。

さらに、この方に付けられるもう一つの名が「驚くべき指導者」です。この「指導者」と訳されている語が本来表すものは、軍事的には参謀の役を担う者であり、政治的には王や君主に助言を与える者であり、一般的には助言したり、弁護したりする者、あるいはカウンセラーの役を果たす人のことを言います。

ユダの国に救い主として生まれ、全イスラエルに希望の光を照らしてくださる方は、王でありつつ助言者でもある方です。この方は、支配し、統治しつつ、民の危機に介入し、民たちに、一人一人に、自分の存在の意味と目的とを再発見させて、生きることの手助けをしてくださる方です。そのような方がこの国で生まれるとイザヤは預言するのです。

究極的には、この預言は神の御子イエスの誕生へと流れ込むものでした。このようなみどりごの現れは、御子イエスにおいてこそ現実のこととなったと、キリスト者たちは受け止めたのです。

みどりごに付けられるであろうと言われた四つの名、「驚くべき指導者」、「力ある神」、「永遠の父」、「平和の君」、これらの全ては、主イエスの人格とその御業の中に含まれていることを、私たちも深い畏れと感謝をもって覚えることができるのではないでしょうか。

このみどりごは、今ここで生きる私たち一人一人にとっても、「驚くべき指導者」であり、「力ある神」であり、「永遠の父」であり、「平和の君」です。「わたしたちのために生まれた」、「わたしたちに与えられた」と言われる「わたしたち」の中に、ここにいる私たちが、その一人一人が、含まれているのです。

イザヤ書の8章の終りから9章にかけて描かれているイスラエルの暗い時代状況は、今日においても形を変えて存在しています。希望の光が薄れ、暗闇と死の陰が私たちの時代を覆っています。一人一人の個人的な生活においても、また、日本の社会においても、さらには世界規模においてはいっそう暗雲が垂れ込めています。私たちは出口を見出せない闇の中に置かれています。

具体的にその事柄を取り上げる必要がないほどに、私たちにはそれぞれに固有の、そして共通の、不安や恐れや心痛める事柄があります。それは、人間としての、あるいは人類としての、存在の危機、生存の危機ともなり得るものです。

どこに私たちの恐れと問いとを投げかけたらよいのでしょうか。誰に私たちの生きることの苦しさと悩みとを訴えたらよいのでしょうか。

その問いの重みで、こうべを垂れてしまいがちな私たちに対して、預言者イザヤは静かに、そして力強く、「こうべを上げよ」と語りかけます。そして私たちに告げます。「あなたがたには驚くべき指導者がいるではないか。良き相談者が与えられているではないか」と。そして、その声に促されてこうべを上げる時、私たちそれぞれの前に主イエスが立っていてくださるのを見出すことができます。主が私たちにとっての驚くべき指導者、最も良き相談者としての働きをしてくださるのです。

相談者としての必要な条件は、相手をよく知っていることと、語るべき適切な言葉を持っていることでしょう。

主イエスは、私たちと全く同じ人の姿をとって、人間として生きられ、死んでゆかれました。主は私たちの苦しみと痛みと望みなき状態をご存じです。

また、主イエスは神の言葉としてこの世に来られたお方だからこそ、一人一人に語るべきふさわしい言葉をお持ちです。この方に問うことによって、私たちは自分自身の抱える苦悩や疑いに関する回答を与えられるだけでなく、人間として存在することの意義、人類の向かうべき方向も示されます。

私たちは聖書の中にこの方を見出すことができ、祈りの中でこの方に出会うことができる者とされています。そして、そのようにして出会い、そこで示された命と救いの言葉を希望の根拠として、人々に運んでいくのです。

ある人がこう言いました。「私たちの周りはあまりにも暗すぎます。なぜ一日中クリスマスではないのですか。なぜ一年中クリスマスではないのですか」。

しかし、そのような暗さの中でこそ、人はまことの光である主イエスを見出すことができるのです。

暗闇が覆うこの時代だからこそ、私たちは光を必要としています。そして、私たちは今、その光を見出すことができる状況の中に置かれています。

日々、主イエスと出会うことができるならば、その人にとっては、一日中クリスマスであり、それが繰り返される時、一年中がクリスマスとなります。私たちは、闇の中でなお、主において希望の光を見出し、自分自身の生を生き抜くことができるのです。

 

心の中に御子イエスが迎え入れられる時こそ、その人にとって、御子イエスが誕生した時です。全ての人が、その喜びに招かれているのです。