「少しも無駄にならないように」

                      ヨハネによる福音書6113

                                                  水田 雅敏 

 

今日私たちに与えられた聖書の箇所はヨハネによる福音書の6章の1節から13節です。ここには主イエスが五千人以上の人々に食べ物を与えられたという出来事が記されています。

主イエスは荒れ野で悪魔から「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑を受けられた時、旧約聖書の言葉を引いて「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。

この言葉は私たちが根本的なところでいったい何によって生きる者であるかということを示しています。これは、私たちが生きるということ、私たちの命というのはただ単に肉体的なことではない、ただ物質的なものだけではないということを高らかに宣言した言葉です。人が人として生きる根拠が示されていると言ってもいいでしょう。

ただし、これは精神的なものと肉体的なものといったいどちらが大事かということを言っているのではありません。聖書の信仰は決して人に対してパンなしでも生きるような精神主義を説くようなものではありません。聖書の神は、人が飢えたまま放っておかれるような方ではなく、人が食べて生きることについて深く配慮してくださるお方です。主イエスは弟子たちに「『わたしたちに必要な糧を今日与えてください』と祈りなさい」と言われました。私たちはそのように祈ることが許されているのです。

詩編の145編の14節から16節にこういう言葉が記されています。「主は倒れようとする人をひとりひとり支え うずくまっている人を起こしてくださいます。ものみながあなたに目を注いで待ち望むと あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き、望みを満足させてくださいます。」

今日の聖書の箇所は、この神の愛と恵みが主イエスを通してこうして実現していくのだということを語っています。人は、パンのみによって生きるのではないけれども、パンなしに生きることはできない、神はそのことをよくご存じであり、主イエスもそのことについて深く配慮してくださるのです。

5節の「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」という言葉もそれをよく示しています。ご自分の飢えのためには石をパン一つにさえ変えようとしなかったお方が、人の飢えに対しては大きな奇跡を起こしてくださるのです。

この言葉に続けてヨハネによる福音書は「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」と記しています。

何かちょっと意地悪にも聞こえる言葉です。しかし、主イエスは意地悪をしようとされたのではありません。ご自分は目の前にいる大勢の群衆の飢えというものを深く心に留めておられる、これを何とかしなければならないと考えておられる、「はたして弟子であるあなたがたはどうか」と問うておられるのです。主イエス一人でもできるものをあえて一人でやってしまわず、弟子たちを招いておられるのです。弟子たちにも大勢の群衆の飢えに対する配慮を共有してほしいと願っておられるのです。

フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。

1デナリオンというのは労働者の一日の給料といわれます。日本だと1万円ぐらいでしょうか。そうだとすると、二百デナリオンは二百万円になります。もっとも、仮にお金があっても、それだけのパンを用意している店はなかったでしょう。ですから、フィリポはここで大きめの数字を具体的に示しながら、「先生、それはとても無理なことです」と暗に主イエスに対して説得しようとしているのかもしれません。

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」という主イエスの言葉は弟子たちへの問いかけ、招きであると同時に、私たちへの問いかけ、招きでもあります。今日の日本でも飢えの中を生きている人々があります。これまで仕事に就いていた人があっという間に職を失い、家を失い、家族も失ってしまう、そういうことが実際に身近なこととして起きています。また、多くの外国の人が十分に食べる物もなく生活しているということも忘れてはならないことです。日本の外にまで目を向けるならば、それは言うまでもないことです。

主イエスが「私の飢え」だけではなく、そのような全ての人々の飢えを心配してくださるお方であるということは大きな慰めであると同時に私たちに対するチャレンジでもあります。私たちは「『わたしに必要な糧を今日与えてください』と祈りなさい」と教えられたのではなく、「『わたしたちに必要な糧を今日与えてください』と祈りなさい」と教えられたことを心に留めたいと思います。私たちは主イエスの配慮の中に置かれていると同時に配慮する立場へと招かれているのです。

さて、フィリポが答えたあと、傍にいたアンデレはこう言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

アンデレもフィリポと同じように悲観的です。けれども、アンデレはフィリポとちょっと違ったところがありました。彼は「焼け石に水」のようなものであることを知り、「これではどうしようもないですよね」と自分で答えを出しながら、少しでも積極的なことを見つけて言うのです。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」。不信仰の中に何かしらひとかけらの信仰を持っているのです。そして、そこから主イエスの大きなドラマが始まっていくのです。

主イエスはこのアンデレの言葉を聞くと「待ってました」とばかりに「人々を座らせなさい」と言われました。そして、そのパンを取り、感謝の祈りを唱えて、人々に分け与えられました。魚も同じようにして分け与えられました。すると、そこにいる全ての人が満腹になったというのです。

そこで食べた人は男だけで五千人でした。女や子供の数は入っていません。主イエスの話を聞きたいと思って来る人は昔から男よりも女のほうが多いのです。教会に来る人の数もたいてい女の数は男の二倍います。その計算でいくと、女の人は一万人くらいいたのではないでしょうか。ですから、全部で二万人くらいの人がいたということが考えられます。その人たちが皆、満腹になりました。満腹になっただけではなくその残りを集めてみると、十二の籠がいっぱいになったというのです。

ここでいったい何が起きたのでしょうか。聖書はその現象について何も書いていませんし、興味もないようです。

いろいろな解釈があります。

これを合理的に解釈しようとする代表的なものは、「実はみんな、お弁当を持っていたのだ」というものです。それをみんな隠していたけれども、少年が大事なお弁当を差し出したので、大人たちは恥ずかしくなって次々に出し始めたのだというのです。

その解釈は今日の世界においてとても大事なことを提起しています。私たち一人一人に食べ物を分かち合うことを訴えています。

けれども、私はもっと素直にこの奇跡を受け止めてもいいのではないかと思います。主イエスは無から有を生み出す力を持ったお方ですから、そのような奇跡をなさったとしても特に違和感はありません。ただ、主イエスはここで無からではなく小さなものを用いて奇跡を起こしてくださいました。アンデレの小さな信仰、そして、少年の好意、信仰を用いて、それを高く引き上げてくださったのです。

前にも言いましたが、このアンデレという人は紹介の達人です。彼は主イエスに出会って従っていく決心をしたその日に、自分の兄弟であるペトロを主のもとに連れて行きました。そして、そこから主イエスとペトロの出会いが起こり、ペトロは弟子となり、そのペトロからキリストの教会が始まっていきました。それはアンデレの小さな行為が主イエスによって用いられ、大きな奇跡を生み出したと言ってもよいでしょう。この時もアンデレは一人の少年を主イエスに紹介しました。そこから始まったことはアンデレの想像を遥かに超えたことでした。それはこの少年の思いをも遥かに超えていたことでしょう。

私たちの小さな思い、小さな行為、それはからし種一粒のようなものかもしれませんが、それが一度、主イエスの手にかかるならば大きく大きくされるのです。主イエスはその小さな差し出しを待っておられるのです。

私たちの世界は様々な問題が入り組んでいます。飢えの問題にしても私たちの小さな力ではどうしようもないほど大きな問題です。何とかこの問題を少なくしたいと願いつつも、私たちではどうすることもできないように思え、無力感に襲われます。あのアンデレと同じです。しかし、その無力感の中で私たちが差し出した小さなものを主イエスはお用いになり、ご自分の大きな計画の中に組み込んでくださるのです。

 

主イエスは人々が満腹したあと、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われました。幾らでもパンを増やすことのできる力を持ったお方が、あたかも貧しい人たちの代表であるかのように「少しも無駄にならないように」と言われます。そこには「いっぱいあるなら少しくらい無駄にしてもいいではないか」という思いに対する批判と、パンのない人々への配慮が込められています。「少しも無駄にならないように」。心に刻みたいと思います。