「さあ、ベツレヘムへ行こう」

          ルカによる福音書2820節 

                  水田 雅敏

 

クリスマス、おめでとうございます。皆さんに神の祝福がありますように。

今日の聖書の箇所を読むとき、私たちに一つの疑問が生まれてくるかもしれません。それは、天使はなぜ最初に羊飼いたちに救い主の誕生の知らせを告げたのか、ということです。

8節に、天使が現れたとき、「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」と書かれています。つまり、羊飼いたちは日常的な仕事のただ中で神の言葉に接する機会を与えられたのです。

このように、普段の生活をしているときに神が介入されるということは、しばしばあることです。例えば、旧約聖書の出エジプト記には、モーセが羊の群れを飼っているときに神との出会いの体験を与えられたことが書かれています。また、士師記には、ギデオンが小麦を打っているときに天使が現れて、ギデオンに新しい務めを与えられたことが書かれています。さらに、新約聖書のマタイによる福音書には、ペトロとアンデレが湖で網を打っているときにイエスによって、「わたしについて来なさい」との招きを受けたことが書かれています。このほかにもまだまだ数多くの例を、私たちは見出すことができます。

このように、日常の生活のただ中で神との出会い、神からの招き、神の語りかけを体験して新しい歩みへと導かれていくことは、いつの時代にもあり得ることです。神が私たち人間の生活のただ中に来てくださって私たちを捕らえてくださる出来事は、歴史の中で繰り返されるのです。私たちはそれぞれに、日常の歩みの中に神との接点を与えられているのです。

神が生きて働いておられることを私たちも体験させられることがこれまでにもありましたし、またこれからもあるでしょう。例えば、洗礼を受ける出来事の中に、私たちは神の御業を見ることができます。洗礼は、私たちがそれぞれ日常の歩みの中で神の声を聞き、神の招きを信じて、神にすべてを委ねようとの決断を与えられたことのしるしです。ときには神など信じたくない、信じられないという苦しい体験もあるでしょう。自分とは何か、生きるとは何かを深刻に問うこともあるでしょう。そのような中で一つの言葉、一つの出会い、一つの出来事の中に神の生ける姿を見出し、信じるに足るお方として神に身を委ねようとする決断を与えられること、これは人の業というよりも神の業というほかありません。

羊飼いたちは何の準備も覚悟もない日常の営みの中で突然、天からの輝きと言葉に接し、大いに恐れ、驚きました。しかし、「恐れるな」と語りかけられる言葉に耳を傾けながら、彼らの心の中には、告げられた通りにベツレヘムに行って、「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」という思いが高められていきました。そして事実、彼らは告げられた通りにベツレヘムに急いで出かけて行って、飼い葉桶の中に寝かせてある救い主を見出したのです。

私たちはこの羊飼いたちの従順さに注目したいと思います。おそらく、羊飼いたちに聖書に関する詳しい知識があったわけではないでしょう。自分たちこそ誰よりも先に救い主の誕生の知らせを受ける資格があるのだということを考えていたわけでもないでしょう。ただ日常の仕事に責任をもって当たりつつ、神を畏れる敬虔な思いと、救い主の現れを待つ熱心な思いは、誰にも負けずに抱き続けてきたことでしょう。だからこそ、日常の働きの中で与えられた神からの啓示に従順に、しかも熱意をもって応えることができたのです。

15節に、羊飼いたちは、「『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った」と書かれています。

これは羊飼いたちが互いに励まし合ったことを示しています。互いに受け止めたことを確認し、励まし合いながら神の言葉に応じて立ち上がる、そこに羊飼いたちの従順さ、素直さがあります。彼らは羊飼いとしての仕事柄、羊たちが主人としての羊飼いの命令に従うことの大切さを知っていました。だからこそ、神の声に即座に応答したのです。

羊飼いたちのこの様子は、マタイによる福音書の2章に書かれているエルサレムの人々の様子とは対照的です。エルサレムの人々は、王も祭司長たちも町の人々も、救い主の誕生のことを東方の学者たちによって知らされながら、また救い主に関するその知識を持ちながら、決して動こうとはしませんでした。それに比べて、この羊飼いたちの応答の素直さ、誠実さ、真剣さに、私たちは心打たれるものを覚えさせられます。

ここで、ある詩をご紹介します。それは「主よ、『はい』と言わせて」という詩です。「子よ、『はい』と言ってくれ。わたしがこの地上にやって来たとき、マリアの『はい』が必要であったように、きみの『はい』が今必要なのだ。この世の救いを続けるために、きみの『はい』が必要なのだ。主よ、あなたの要求はとてもかないません。しかし、誰があなたに手向かい得ましょう。わたしの国ではなく、あなたの御国が来るために、わたしの心ではなく、あなたの御心がなるために、わたしに『はい』と言わせてください。」

日常の生活の中で神が声をかけられたときに、「はい」と従順に応えられる私たちであるように、地上の出来事を通して神が私たちに立ち上がることを求めておられることを知ったときに、その向かう方向がはっきりしていなくても、「はい」と応じることができるように、私たちも「主よ、『はい』と言わせてください」と祈る者でありたいと思います。

羊飼いたちは、天使の言葉、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」との言葉通りの出来事に出会って、それを人々に語り伝えました。彼らは飼い葉桶の中の小さな、貧しさの中にある救い主に躓くことはありませんでした。それはなぜでしょうか。天使の言葉を信じたからです。

それは私たちにとっては、十字架の上で無惨な死を遂げられたイエスに躓かない、それが信仰の妨げにならないということです。羊飼いたちが貧しさの中に神の輝きを見たように、イエスの十字架の死の中に私たちの罪の赦しと新しい命を見ることができる、それが私たちの信仰です。

羊飼いたちはこうして、自分たちが体験した神の業を人々に宣べ伝えました。

ある人はこのことを次のように言っています。「我々の神は、天使をもって事を始め、羊飼いたちをもって事を終えられた。」

神は御自身の救いの業を明らかにしていく務めを私たちに託されるお方です。神は私たちの持っている小ささや弱さや足りなさを軽く見なされることはありません。私たちがその器に盛れるだけのものを盛って御業に励むことを、神はお喜びになります。

私たちはこの礼拝を終えると自分の家へと帰っていきます。そこには前と変わらない日常の生活が待っています。しかし、礼拝からそれぞれの場へ帰っていくことは同時に、神によってそれぞれの場に遣わされていくことでもあります。羊飼いたちが救い主の誕生の感動と喜びをもって神を賛美しながら帰っていったように、私たちも、「神は、生きて働いておられる」との喜びに満ちた確信をもって、この礼拝からそれぞれの場へと遣わされていくのです。私たちの日常の場は、主が私たちを担ってくださる場であるからこそ、私たちもそこで神と人のために働くのです。