「神の約束」

                コリントの信徒への手紙二 611節~71節 

                                               水田 雅敏

 

新約聖書の中には手紙がたくさん収められています。その手紙にも種類があります。例えば、ローマの信徒への手紙のように、よく考えた上で書いたのではないかと考えさせられるものもあります。しかし、もともと手紙というのは、どちらかと言えば、思いに任せて自由に書くことが多いのではないでしょうか。特にコリントの信徒への手紙のように宛先の教会に多くの問題があり、その教会と執筆者のパウロとの間も複雑であれば、手紙の内容も整ったものになりにくくなると思います。

しかし、聖書の不思議さはそこにあります。それは、そのように整わない、いわば人間的な書き方の中にも神の言葉が啓示されるということです。そういう人間的なものの中にも神の言葉を読み取ることができるのです。神の言葉も人間の言葉と離れて別に考えることはできません。人間の言葉で、人間の生活の只中で、語られるのです。コリントの信徒への第二の手紙はその特徴が著しいものの一つです。

6章でパウロは伝道者の労苦と誇りについて語っています。それは、1節にあるように、神から与えられた恵みを無駄にしない生活です。そのことを語ることはパウロにとって心を広く開くことでした。

11節から13節にこうあります。「コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。」

「ここまでわたしは自分の生活について語ってきた。それはあなたがたに対して心を広くしたことだから、あなたがたは心を狭くしないでほしい。わたしは子供に対する父親のような気持でいるのだから、あなたがたも父親に対する子供のように心を開いてほしい」というのです。一言で言えば、互いに心を開いて愛し合おうではないかということです。

パウロの手紙の一つの特徴は、信仰の内容を書いたあとに、その信仰による生活の勧めがなされることです。ところが、コリントの信徒への第二の手紙はそれが入り混じっていると言いましょうか、はっきりとした区別がなく語られています。今日の聖書の箇所もそうです。「互いに心を開いて、愛し合おうではないか」と言ったパウロは、14節以下では突然激しい口調に変わります。

14節から15節にこうあります。「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。」

14節に「軛につながれてはなりません」とあります。軛につながれるというのは動物を同じ軛につないで働かせることです。

15節に「ベリアル」とあります。これは悪魔の名です。この手紙が書かれた時代には様々な悪徳が蔓延していました。殊にコリントの教会があったコリントの町は頽廃していたことで有名です。コリントの教会もその影響を受けて多くの問題を抱えていました。そういう教会に手紙を書くにあたって大変厳しいことをパウロが言ったとしても、誰も不思議に思わないでしょう。

では、14節から15節の言葉はそういう特別な場合だけについて語られているのでしょうか。そうではありません。このあとの16節以下を読みますと、ここで語られているのは結局、神の神殿と偶像の問題であることが分かります。

16節にこうあります。「神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。『〈わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。〉』」

「正義と不法」、「光と闇」、「キリストとベリアル」、「信仰と不信仰」、これらはつまるところ神の神殿と偶像の問題、すなわち神を拝むか、神でないものを拝むかという問題です。

私たちキリスト者は悪しき生活についてはっきりした態度を取らなければならないことは明らかなことです。しかし、その生活を貫くことは容易ではありません。それなら、この世にあってキリスト者がその生活を守り抜くにはどうしたらよいのでしょうか。

それには神の神殿の生活に徹することが大切です。私たちの場合で言えば教会生活をするということです。

16節に「わたしたちは生ける神の神殿なのです」とあります。私たちが神に召されて、救われた者として教会生活をしていること、神を礼拝する生活をしていること、それはまさに神の神殿として生きているということにほかなりません。神殿の中心は礼拝です。私たちは礼拝によって神の臨在を確信します。それが私たちの生活の大もとにあります。

16節以下には、旧約聖書からの引用があります。

16節で言われているのは、神が私たちの間に住みかつ巡り歩かれるということです。そのようにして神はまことに私たちの神となり、私たちは神の民となるというのです。

私たちは主の日のごとに礼拝を守ります。しかし、その礼拝は私たちだけでしているのではありません。神が私たちを礼拝に招いてくださったのです。神がそこで私たちに会ってくださるのです。ここの言葉で言えば、神は私たちの間を巡り歩いてくださるのです。

17節で言われているのは、悪から遠ざかるならば、神に受け入れられることを確信することができるということです。しかし、これはもともと神に受け入れられた者に対して言われていることです。ですから、ここで言われていることは礼拝する者に対する勧めでもあります。悪から遠ざかるという人間の力によってはできないことが神の力によってできるようになるのです。

18節で言われているのは、神は私たちの父となり、私たちを息子・娘としてくださるということです。私たちを神の家族としてくださるのです。

このように見ていきますと、「悪から遠ざかれ」というのは単なる道徳の教えではないことが分かります。それは救いを受けた者に対する神の約束です。

7章の1節にこうあります。「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」

私たちは、救われるときも、勧めを与えられるときも、いつも同じ神の約束によって守られています。私たちにとってはどんなときでも神の約束が頼りであり、力であり、希望です。

ですから、私たちは「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め」なければなりません。「霊の汚れ」とは何でしょうか。心に汚れた思いを持つことでしょうか。そういうことも含まれていると思います。霊の聖さは神にのみ、つくことにあります。神を思い、神を拝むことをほかにしては霊の聖さというものはあり得ません。ですから、ここでも教会生活に生きている者の姿が見えてきます。

したがって、大切なことは「神を畏れる」ことです。教会生活といい、礼拝といい、重要なのは神を畏れることです。神を畏れるというのは神を恐がるということではありません。神を恐がるのは神を知らない人のすることです。神が恵み深く愛に満ちておられることが分からないので神を恐がるのです。神を畏れるのは、神のまことの力を知り、その愛を知るときにできることです。それはまことに神を神とすることです。

 

そのように神を畏れることができれば、その恵みを受けた者として私たちは、自分が神のものとされていることが分かるので、「完全に聖なる者」となろうと思うようになります。自分の救いを全うすることを熱心に求めるようになるのです。神の約束に励まされ、押し出されて、それを求めていくのです。