「平和を実現する人たち」

          ヤコブの手紙31718節 

                     水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヤコブの手紙の3章の17節から18節です。この箇所でヤコブは上から出た知恵、すなわち神から出た知恵のもたらす様々な良き賜物を挙げることによって、教会として、またキリスト者として何を求めるべきかについて示しています。そして、いかに神と人とに仕えるべきかを勧めています。

それでは上から出た知恵、神から出た知恵のもたらす良き賜物とは何でしょうか。

17節にこうあります。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」

ここには神から出た知恵のもたらす八つの賜物が挙げられています。これらは大きく分けるならば、神への信頼と隣人への愛、この二つの事柄にまとめることができます。

はじめの四つ、「純真」、「温和」、「優しさ」、「従順」は、人との関わりの中で捉えることもできますが、むしろイエス・キリストが示してくださった神への疑いのない信頼を表していると見るべきでしょう。神は私たち人間よりも遥かに大きい方です。その方の前にあって、私たちは取るに足りない小さな存在にしか過ぎません。その思いが神への全面的な信頼となって表れてきます。そのように生きることができるのは神から出た知恵を豊かに受けることによってであることを、これらの賜物は示しています。私たちよりも遥かに大きな方である神への信頼、それは神から与えられる知恵によって、純真で、温和で、優しく、従順なものとして表されるとヤコブは言うのです。

続いて、「憐れみと良い実に満ち、偏見はなく、偽善的でもない」という四つの賜物が挙げられています。これは特に人と人との関係の中で表されるものとして示されています。真実に人と関わりながら、課題を担いながら、共に生きようとすること、それがこれらの賜物を通して貫かれています。神が私たちの存在を許し、生かしておられる自分であることを思うときに、自分の傍にいて同じ時と同じ場所を共有している他者もまた神の許しの中でその存在があり、命があることが分かります。そのことを知ることも神から出た知恵によるのです。

この知恵に導かれるとき、私たちの生き方、人との関わり方は変わってこざるを得ません。命を分かち合う関係、命を共に生かし合う関係がそこに生まれてきます。それだけの力を神からの知恵は私たちに与えてくれるのです。

しかし、このような生き方ができる人、このような生を貫くことができる人、そのすべてが当てはまる人は、おそらく私たち人間の中には一人もいないのではないでしょうか。このような生を貫いた方、この神からの知恵によってのみ生きた方、さらにはこの知恵が指し示す事柄が真に何を意味しているかを明らかにしつつ、その知恵のままに生きた方、それはイエス・キリストただお一人です。下からの知恵、地上の知恵が荒々しく人々を動かしている中で、上からの知恵、天からの知恵にのみ生きたお方がおられる、それがイエス・キリストです。

ですから、そのイエス・キリストが生きられた生、神に対してそして人に対して示された関わり、その中に神からの知恵があらわに示されています。そうであるならば、神からの知恵の具体的な現れを知るためにはイエス・キリストに目を注げばよいということになります。神からの知恵に従う生き方を求めようとするならばイエス・キリストに倣えばよいということになります。

神からの知恵を求めるということはイエス・キリストに対する信頼に生きることです。自己の修練や修養ということではなくて、イエス・キリストへの信仰こそが私たちの生き方を変えていく、私たちの生き方を新しく造り上げていくのです。

イエス・キリストを私たちの救い主、神と人との間に立っておられる方として信じられるとき、私たちの生き方の中に新しいものがもたらされ、新しい動き、新しい方向が示されます。それは、私たちの内側を変化させ、私たちの生き方に新しい秩序を打ち立てていきます。それは教会を真のイエス・キリストの体として造り上げることに結びつくでしょうし、私たちが生きているこの社会を新しく造り上げていくことにも結びつくでしょう。

それでは私たちは具体的にどうしたらよいのでしょうか。それはまず私たち自身が、神がイエス・キリストにおいて為してくださったこの私への愛の行為をしっかりと受け止めること、私のために差し出してくださった神の愛の中に自分自身を浸すことです。イエス・キリストの選びと招きを畏れと感謝をもって受けとめるのです。そして、このことを信じる信仰によって、神との歪んだ関係、自ら破ってしまった関係が回復されたことを確信して安らぎを得る、それがまず最初に私たちに起こらなければなりません。

この私がイエス・キリストへの信仰を通して神によって受け入れられているということは、「赦し」という言葉で語られることもありますし、「義とされる」という言葉で語られることもあります。また神との和解とか神との間の平和という面から語られることもあります。要するに、神はイエス・キリストを通して、私たち一人一人を受け止め、私たちを生かして、御自身の御業のために用いてくださる、そして、空しくは終わらない命の保証を与えてくださる、この確信に立ち続けることによって、神との正しい関係の回復が起こり、そして私たち一人一人の内に平和が打ち立てられていくのです。

そのことを感謝をもって受けとめるときに、私たちはさらに広い領域で平和を実現するために働く者とされていきます。

18節にこうあります。「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」

神から出た知恵に生かされている人、神から来られた方であるイエス・キリストにあって新しい命を与えられていることを喜ぶことのできる人は、心に平和を与えられます。そしてそれによって様々な領域において平和の実現に仕えるための働きをする者とされます。それはいろんな意味での関係の回復のための創造的な働きに参与していくということにもなります。神からの知恵によって生かされ、神との関係の回復を信じることのできる人は平和のうちに新たな生き方をすることができる者とされるのです。

この点に関して二つことを考えてみましょう。

一つは、神との関係の回復は私たちに平和をもたらすということを今聞きましたが、それは別の面から考えるならば、私たち一人一人が自分自身の中に自分との正しい関係を持つことができるようになるということです。

私たちはそれぞれに自分自身の内面に途方もない戦いを多かれ少なかれ抱え持っているものです。ありのままの自分を受け入れられないとか、借り物の自分と本物の自分が自分自身の中にあるとか、自分の中にもう一人の自分がいてどうにもならないといったことを私たちは経験します。そのような内的な戦いの中にある私たち一人一人に対して、神はイエス・キリストを通して手を伸ばしてくださり、それをもって私たちを神の側に引き寄せようとしておられます。そして、引き寄せた私たちをそのまま受け止めてくださいます。ありのままの私を神は受け入れ、私のそのままを神に委ねよと言ってくださるのです。このイエス・キリストにおける神の招きに従うとき、私たちの内的な問題や戦いはやがて収束に向かっていくことでしょう。それが私の中に平和を生み出すのです。神からの知恵はそのようなことを私たちに生み出してくれるのです。

そして、もう一つ、このように神との正しい関係の回復を与えられた人は、さらに他者との間の平和の実現のためにも働くことができる者とされます。

世界では人種と人種、民族と民族、国と国、その違いによって様々な争いや対立が起こっています。政治の形や思想の違いといったことから生まれる様々な争いもあります。そのような大きなレベルにおいてだけでなくて、日常的にも考え方や性格の違いといったことも争いや対立の原因となってしまうのが私たち人間社会の有様です。そのような中で、神がイエス・キリストによって赦しと和解を用意してくださっている、そのことに希望の根拠をおいて、人と人との関係の回復、平和の実現のために働くことができる者とされるのです。このような人々の働きによって、私たちの目には見えていないけれども、神のみが御存じであり、神によって備えられている、今ある現実とは異なる新しい世界が現実のこととなる、その時が来る、そのことを私たちは確信してよいのです。

そのために、神はまず私たちに平和を与え、そして私たちを用いようとしてくださっています。これは別の面から言えば、イエス・キリスト御自身を運ぶ働きをするということです。神の愛を広げるのです。諦めず、絶望せず、それぞれに与えられている場で、この業に励む人の存在と働きによって、この地上が神に向かって造り上げられていく、それが神の約束です。

イエス・キリストの教会こそがその働きを担わなければなりません。そのことが神から期待されています。そのためにイエス・キリストが私たちのもとに送られ、そして私たちに赦しを与え、神との関係の回復を与え、平和を与えてくださいました。この平和の喜びに生きる人は平和を広げるために仕えなければなりません。

 

大きな責任がそこに伴うと共に、これは光栄ある業への神の招きであることを私たちは改めて覚えさせられます。平和の神が私たち一人一人にいついかなる場合にも平和を与えてくださるように、平和の業に遣わされていく一日一日の歩みを私たちは共に歩んでいく者でありたいと思います。