「イエスを証しする喜び」

                     ヨハネによる福音書32230

                                                 水田 雅敏 

 

今日私たちに与えられた聖書の箇所には「イエスと洗礼者ヨハネ」という題が付けられています。

洗礼者ヨハネは既にヨハネによる福音書の1章に登場していますが、そこでヨハネは、「わたしはメシアではない」とはっきり言い、「自分は『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声だ」と述べました。

また、今日の聖書の24節で唐突に「ヨハネはまだ投獄されていなかったのである」と記されていますが、これについてはマタイによる福音書の14章に記されています。

洗礼者ヨハネは領主ヘロデが兄弟の妻ヘロディアを横取りしたということを非難して牢屋に入れられることになります。その後、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘サロメが美しい踊りを踊ったので、ヘロデは嬉しくなり、「褒美として、何でも欲しいものをやろう」と約束してしまいます。サロメは母親ヘロディアの入れ知恵で、「洗礼者ヨハネの首を盆にのせて、持ってきてほしい」と言います。ヘロデは、みんなの前で約束したこともあり、その通りにしてしまいます。こうして洗礼者ヨハネは首をはねられ、悲劇的な生涯を終えるのです。

これらのことを踏まえながら今日の箇所を読んでいきましょう。

主イエスと弟子たちはユダヤ地方に行って洗礼を授けておられました。他方、洗礼者ヨハネと弟子たちはサリムの近くのアイノンで、洗礼を授けていました。サリムの近くのアイノンというのはガリラヤ湖と死海の間、ヨルダン川の西側にあった町です。おそらく主イエスと弟子たちは洗礼者ヨハネとそう遠くないところまで近づいて来られたのでしょう。その時、洗礼者ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こったというのです。

この論争がいったいどういうものであったのかは記されていませんが、このあとの文脈から想像すると、「主イエスの洗礼と、洗礼者ヨハネの洗礼と、どちらのほうが清めの力があるか」というような論争であったと思われます。

ここで少し洗礼の意義について考えてみましょう。

水によって清められるという考えはユダヤ教の中に古くからありましたが、それが入信儀礼のような意味合いを持ってきたのは、ちょうどこの頃でした。

マルコによる福音書の1章によると、洗礼者ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を授けていました。

この言葉からも分かるように、洗礼というのは、まず、悔い改めのしるしです。特に洗礼者ヨハネはあえてそのことに限定して洗礼というものを考えていました。

私たちの洗礼というのも一つには悔い改めのしるしであることを覚えておきたいと思います。洗礼は神に立ち帰ること、神のほうへ向き直って生きるという決心のしるしなのです。

そのように、洗礼は私たち人間の側から見るならば悔い改めのしるし、あるいは信仰の決断のしるしですが、洗礼にはもう一つ大切な意味があることを忘れてはなりません。それは、洗礼は、神の側から見るならば、私たちに向けられた神の恵みのしるしであるということです。この洗礼を通して神が私にしるしをつけてくださる、私たちはそのことを信じて洗礼を受けるのです。

洗礼には当然、日付と場所と司式者が存在します。ですから、洗礼を受けた人が教会から遠のいていたとしても、そのしるしは消えることはありません。ある人はそのしるしを消したいと思うかもしれませんが、消すことはできないのです。洗礼を受けたことを否定することはできないのです。証拠が残っているのです。いや、何よりも自分の体にそのしるしが刻み込まれているのです。

もしもそれがなければ、ある時、熱心に教会へ通っていたとしても、そのうちに行かなくなってしまうと、「いやあ、あれは若気の至りでした」とか、「お恥ずかしい限りです」などと言って、過去のことになってしまうでしょう。しかし、ある時、神と私たちが接するようにして、そこにしるしが付けられ、それがずっと残っていくのです。

私たちの決心に応じて、あるいは私たちの決心を超えたところで、神が私にしるしをつけ、私を清めてくださり、御自分の命の中に入れてくださる、それが洗礼の大きな意味です。

さて、洗礼者ヨハネの弟子たちはヨハネのもとに来てこう言いました。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人のほうへ行っています。」

この洗礼者ヨハネの弟子たちの言葉には一種のひがみ、あるいは焦りのようなものが感じられます。「ヨハネ先生、あのイエスという人はあなたから洗礼を受けた人でしょう。いわばあなたの弟子でしょう。それが今みんなあの人のほうへ行っていますよ。悔しいじゃありませんか。放っておいていいのですか」。

しかし、その弟子たちの問いに対する洗礼者ヨハネの答えは、非常に冷静であり、自分の分をよくわきまえたものでした。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

これは負けを認めた人間の敗北宣言のように聞こえるかもしれません。「わたしの負けです。完敗です」。諦めと悔しさが感じられる言葉とも受け取られかねません。しかし、そうではないのです。

ヨハネという人は主イエス以前において旧約以来ずっと続いてきた最後の預言者であると言えるでしょう。旧約聖書のまとめをするように、そうした全ての預言者の思いを身に引き受けて、主イエスの直前にあってその直接の道備えをしたのです。

それと同時に洗礼者ヨハネは主イエスの最初の証人です。主イエスの傍らにあって、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と主を指し示した人です。

ですから、洗礼者ヨハネは、旧約のまとめでありつつ、新約の先駆けでもあります。

「見よ、この人だ。わたしではない。この人が来るために、わたしは道備えをし、この人が来たから、わたしはそれを証しする。そして、それでわたしの役割は終えるのだ」。そこに本当の喜びを知っていたがゆえに、洗礼者ヨハネは喜んで、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言うことができたのです。

この洗礼者ヨハネの姿は私たちキリスト者のあるべき姿を指し示していると思います。

ある人がこう言いました。「キリスト者の務めというのは鉄道の保線夫のようなものだ。」保線夫というのは目立たない脇役、あるいは裏方のような仕事です。主役は線路の上を走り抜ける電車です。それが滞りなく走り抜けることができるように、線路を点検し、整備をするのが保線夫の仕事です。

教会に当てはめてみるならば、電車は主イエスであり、聖霊です。その聖霊という名の電車がきちんと走り抜けることができるように、私たちは自分の持ち場をしっかりと点検し、整備するのです。

洗礼者ヨハネという人は、始めに見たように、非常に悲劇的な生涯の終わり方をしました。彼はその生き方だけでなく、その死に方においても、主イエスの先駆けであったと言えるでしょう。主イエスも洗礼者ヨハネと同じく悲劇的な死に方をされたからです。

しかし、洗礼者ヨハネは、そのように死んでいく中においても、自分の人生は決して無駄ではなかったということを十分に知っていました。だから、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言うことができたのです。

私たちがこの世で生きる時にも同じことが言えるのではないでしょうか。私たちの人生もやがて必ず終わりを迎えます。ある人はこの世的に成功してその人生を終えるかもしれません。またある人はこの世的には恵まれない形でその人生を終えるかもしれません。しかし、そのようなことはキリスト者にとっては重要なこと、本質的なことではありません。

本当に大事なことは、その生涯を通して主イエスを指し示し、主イエスを証しし、そのことによって喜びを得たかどうかということに懸かっているのです。

 

私たちは、そのような生き方を洗礼者ヨハネから学びつつ、彼が指し示し、証しした主イエスに繋がって生きる者でありたいと思います。