「主の貧しさによって」

          コリントの信徒への手紙二 889節 

                   水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の8章の8節から9節です。

パウロの手紙の特徴の一つは、信仰生活について語っているうちに、突然、信仰の一番中心になることについて触れることです。突然、信仰の大切な内容について語り出すのです。この箇所においてもそうです。

8節にこうあります。「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」

パウロはここまでコリントの教会の人々に貧しい人々を顧みることの大切さを語ってきました。

例えば、前回学んだ7節にこうあります。「慈善の業においても豊かな者になりなさい。」それはコリントの教会の人々の愛の純粋さを確かめようとして勧めてきたことでした。

パウロは愛の純粋さについて考えているうちに信仰の一番中心になることをどうしても思わざるを得なかったのでしょう。そこでこう語り始めます。

9節にこうあります。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とか「主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」とありますが、これはどういう意味でしょうか。パウロは何を言おうとしているのでしょうか。

ここで参考になるのはフィリピの信徒への手紙です。その2章の6節から8節にこうあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

6節に「キリストは、神の身分でありながら」とあります。これは今日の聖書の9節の「主は豊かであったのに」という言葉と響き合う言葉です。つまり、「主は豊かであったのに」というのは、「主は、神の身分でありながら」ということです。主は神の身分でありながらあなたがたのために貧しくなられたとパウロは言うのです。

では、主は貧しくなられたとはどういうことでしょうか。

フィリピの信徒への手紙の6節には、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とあります。

つまり、主は貧しくなられたというのは、主が自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられたということです。

フィリピの信徒への手紙の8節には、「それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。

主が自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられ、十字架の死に至るまで従順であった。これは大変驚くべきことですが、豊かな者から貧しい者になることにおいてこれ以上のことはありません。

ここに私たちの信仰の中心があります。ですから、私たちはこのことをできるだけ深く掘り下げて知ろうとしなければなりません。

神が人間となられたということは分かりにくいことかもしれません。例えば、それは神が人間に変身することでしょうか。そうではありません。神が人間になられたのは、神が人間にならなければならなかった特別の事情があったからです。それは人間の罪を救うためです。人間の罪を救うために主は人間となり、十字架の上で死なれたのです。「あなたがたのために貧しくなられた」というのはそういうことを言っています。

ここで思い起こす聖書の箇所があります。それはイザヤ書の53章です。そこには苦難の僕の歌が書かれています。苦難といっても、ただ苦しんだということではありません。この僕が苦しんでいるのは、神の手にかかり、打たれたからだと人々は思っていたのですが、実はそうではありませんでした。それは人間の背きのためであり、咎のためでした。ですから、その結論としてイザヤ書には、「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」と書かれています。ここに、主が貧しくなられたことの真の意味があります。

主の十字架、それは恥の極み、不名誉の極みです。なぜなら、それは罪が持つ一切の貧しさをその身にかぶることだからです。罪というのは人によっては美しいもの、豊かなものに見えることがあります。だから、多くの人が今も罪に引きずられていくのでしょう。しかし、罪は最も貧しいものです。なぜなら、罪は神の前に人を立たせることができないからです。そして、その結果として、罪は死に終わります。

では、主が十字架の上で死なれたことによってどういうことが起こったのでしょうか。

今日の聖書の9節でパウロはこう言っています。「それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」

主が十字架の上で死なれたのは私たちが「豊かになるため」でした。「豊かになる」というのはもちろん経済的に豊かになるとか、お金持ちになるということではありません。救われるということです。そのことのゆえに神の恵みに富むことです。主が十字架の上で死なれたことによって、私たちは神の御前において富む者となったのです。だから、魂の貧しさを感じることがないのです。心安らかに過ごしていられるのです。そのゆえに他者を顧みることができるのです。愛に生きることができるのです。

今日の聖書でパウロは、教会生活、信仰生活はいつもその大もとに帰らなければならないことを私たちに教えています。原点に立ち返ることの大切さを教えています。そこで語られていたのは私たちのために主が十字架の上で死なれたことでした。

こうしてパウロはイエス・キリストの十字架の救いを指さしました。それによって私たちの信仰生活の仕方を定めていこうというのです。そういう意味で、今日の聖書の箇所は信仰による生活とはどういうものであるかということをよく示していると思います。