「神の言葉を告げよ」

                          ヨナ書314節 

                                                 水田 雅敏

 

魚の腹の中に三日三晩閉じ込められていたヨナは神が魚にお命じになることによって陸地へと吐き出されました。ヨナは彼の身に襲った一連の出来事の最初の地点に戻ったと言ってよいでしょう。いわば1章の1節の振り出しに戻ったのです。

そして、最初と同じように神の言葉がもう一度ヨナに臨みました。

3章の1節から2節にこうあります。「主の言葉が再びヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。』」

ニネベに神の言葉を運んでいくのに、なぜヨナでなければならないのでしょうか。いやだと言って逃げるヨナではなくて、彼以外のもっとふさわしい人物を神はなぜお選びにならないのでしょうか。

私たちがそう考えるだけでなくて、おそらくヨナ自身もそのように考えたのではないでしょうか。誰が、ある務めを為すのにふさわしいかは、人が決めるのではなくて、神がお決めになられるということを私たちは教えられます。

ニネベに行って神の言葉を語る者はヨナでなければならない、それは神がお決めになったことでした。神がお決めになったことであるならば、そこでは人間の反抗や抵抗や挫折を超えて神の意志が貫かれていくのです。

ヨナは今回は神の命令どおりニネベに向かって進んで行きます。

3節の前半にこうあります。「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。」

ヨナがニネベに向かって進んで行ったことは果たして彼が心から素直に神の言葉に従った行為だったのでしょうか。そのことに関して幾つかの解釈があります。

ある人は、ヨナは海に放り込まれ、死の苦しみを経験し、魚の腹の中に呑み込まれることによって神に救われたのだから、新しくされて心から喜んで神の命令に応じていると考えます。しかしまた、ヨナはその本性において従順でないものを持っている、それは今も変わっていないと見る人もいます。あるいは、ここでヨナは表面的には神の命令通り動いているけれども、その心の中には納得しがたいものを抱えていたのではないかと想像する人もいます。

ヨナの心境や神の言葉への反応の内容を考えることは興味のあることですが、ここにはヨナが喜んで命令どおり動いたとも不承不承ニネベに行ったとも記されていません。どちらも証拠になるものは記されていないというのが事実です。

ただはっきりしていることは「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った」ということです。少なくとも、ヨナはあの苦しみを通して神に従うことを学んだ、神に逆らってもダメだということを学んだ、このことは確かです。

ヨナは神によって再教育され、新しいものをその体の中に注ぎ込まれて今動いています。それは別の見方をするならば、神に逆らい神に抵抗した者が神によって赦され新たな機会を与えられているということです。

私たちにも同じことが起こります。私たちも神の命令に従うことができないで神に逆らうことがあります。務めへの招きを受けながらそれから逃げてしまうことがあります。あるいはそのことによって悩みや不安を抱えたり挫折を味わうこともあります。

しかし、神はそのような私たちにも二度目の機会を与えてくださいます。再出発の時を私たちにも備えてくださり、私たちの反抗を赦し、反抗のゆえに受けた傷を癒して、再び立たせてくださる、それが私たちの神です。神の業に参加し、神からの務めを果たすにはどのような務めであっても十分ではない私たちです。しかし、そのような者をも神が用いようとお決めになったのであれば、私たちがいくら抵抗しても逃げても、ついには神の計画通りに事は動いていくのです。

それを私たちは神の憐れみのしるしとして受け入れなければなりません。私たちの意志を貫くところに祝福があるのではなくて、私たちの意志が退けられるところに神の祝福が備えられているということがあるのです。神はそういう為さり方をされるお方なのです。

2節ですが、神は「わたしがお前に語る言葉を告げよ」とヨナにお命じになりました。この「言葉」と訳されている語は、もともとは「宣言」とか「宣告」とか「通告」といった内容を持っています。つまり、対話や相手の了解を求めたりするような性格の言葉ではなくて、ある意味では相手が承認しようがしまいが、とにかく一方的に語らなければならない、宣告しなければならない言葉なのです。

ヨナには神の言葉を運ぶ器、道具に徹することが求められています。ヨナは神が語れとお命じになった言葉のみを語ればよいのです。彼はニネベに行って、自分が語るべき言葉を工夫し、考え出し、ニネベの人々と対話しながら何とかして彼の独特の話術、語り方で、相手を説得しようとする必要はありません。彼はただ神から託された言葉をそのまま語り告げればよいのです。もちろん、心を込めて相手を思いやりつつ、ということは必要です。しかし、もっと大事なことは、神が命じられた言葉を曲げないで、その内容を薄めないで語るということです。こんにちの説教者の務めもそこにあります。ヨナはそのようにしてニネベに向かって新たな出発をしました。

3節の後半にこうあります。「ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。」

ニネベは極めて大きな都でした。しかも、ヨナにとっては異教の国であり、人々は異なる信仰のもとに生きていました。

最初の神の命令にヨナが従うことができなかったのは、ニネベの都の大きさ、自分と比較してあまりにも大きすぎるという恐れがあったからでした。だからヨナはニネベとは反対方向に逃げて行ったのです。しかし、今は初めに抱いていたニネベに対する恐れよりも、神に対して不従順であることへの恐れを持ってヨナはニネベに向かって行きます。そして、そこで命じられた神の言葉を語ることになるのです。

4節にこうあります。「ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。『あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。』」

ヨナがニネベで語った言葉は極めて簡潔です。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」、これだけです。これは滅びの宣言です。神によって滅ぼされるとの通告です。

この「四十日」という言葉には二つの意味があります。

一つは、悪に対する神の忍耐に期限があるということです。神はこれ以上ニネベの悪を放っておくわけにはいかない、見過ごしにするわけにはいかないという宣言がここにあります。

もう一つは、四十日の間にニネベの人々が悔い改めれば滅びを免れることができるという憐れみの期間を意味しているということです。つまり、神の御心は、ニネベを滅ぼすことにあるのではなくて、人々に警告を与え、悔い改めを促し、そして人々を赦すことにあるということです。

裁きの告知は裏を返せば、「その審判から免れよ」という救いへの神の激しい招きの言葉です。滅びが宣言される、裁きが告げられるということは、それを避けてわたしのもとに帰って来いという神の熱い呼びかけを含んでいるのです。

ニネベに対して四十日間の猶予が与えられています。その間に人々は神のもとに帰らなければなりません。

私たちもまた、赦されている時の間に神のもとに帰らなければなりません。

こうして小さなヨナが大きなニネベに向かって懸命に神の言葉をもって叫んでいます。ニネベにおけるヨナの宣教の姿を頭に思い描いてみるときに痛々しさを覚えさせられます。一人で大きな都に向かって、しかも、滅びを語らなければならないのです。しかし、それがヨナに定められた生き方であるならば、彼はそれを生きていくほかありません。そして、それを生きていく先に神からの祝福が備えられています。

 

私たちにおいても同じです。辛くても与えられた務めを果たしていくときに、その先に神からの祝福が約束されているのです。苦しくても与えられた命を生きていくときに他の人々の祝福の基として私たちが用いられることがあるのです。神はそのように私たちを取り扱われるお方なのです。