「神の秘められた計画」

                     ヨハネによる福音書114557

                                                   水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の11章の45節から57節です。

この11章には主イエスがラザロを復活させた出来事が記されていますが、今日の箇所はその反響、あるいは残響とでも言える部分です。

主イエスがラザロを復活させたことに対する人々の反応が二つに分かれています。主イエスを賞賛する人々と、主イエスを敵視する人々です。しかし、その両方とも主イエスの思いを理解しているとは言えません。ヨハネによる福音書は主イエスがその狭間で殺されていく物語をこれから語っていくのですがが、今日の箇所はその始まりを告げている箇所と言えるでしょう。

53節に「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」とあります。

死の影が忍び寄ってきているのです。

それでは、「イエスを殺そうとたくらんだ」「彼ら」とは誰であったのでしょうか。

それは、47節にあるように、祭司長たちとファリサイ派の人々でした。彼らはユダヤの最高決議機関である最高法院を召集し、主イエスを殺すことを公に決定するのです。

45節に「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」とあります。

彼らはラザロの葬儀の弔問客でしょう。特に政治的な思惑のない一般の人々です。その彼らが、主イエスがラザロを復活させたのを見て、単純に主を信じたのです。そして、そのニュースは人々の間でどんどん広まっていったと思われます。

55節以下には、過越祭が近づいたために各地から大勢の人々がエルサレムへやって来たことが記されています。

人々は口々に主イエスの噂をしていました。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか」。主イエスの姿を探し求めていたのです。

ただ、この人々がどのレベルで主イエスを信じていたかは疑問です。彼らには誤解しているところがあります。主イエスは彼らにとって自分たちの夢を適えてくれるヒーローのような存在です。「この人こそ、われわれをローマの支配から解放してくれるかもしれない」。しかし、あとになってそのような意味での救い主でないことが分かってくると、主イエスを逆恨みして「十字架につけろ」と叫ぶようになるのです。

46節にこうあります。「中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」

葬儀の弔問客の中の誰かが、主イエスがラザロを復活させたことをファリサイ派の人々に告げに行きました。

そして、先ほど言ったように、最高法院が召集されます。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

実は最高法院の中には微妙な政治的な対立がありました。

最高法院の議長を務めていたのは大祭司です。その下には祭司長たちがいます。彼らは「サドカイ派」と呼ばれる人々です。この人々はあまり信仰的ではありません。復活を否定する世俗的な人たちです。そして、ローマの支配をバックに自分たちも安全でいることができた、いわば貴族階級です。

もう一つの派閥はファリサイ派です。彼らはサドカイ派とは対照的に非常に信仰的な人々です。律法も厳格に守っていました。しかし、形式的に守り過ぎて、反対に神の御心が分からなくなってしまったと言えるかもしれません。

この両者が最高法院を二分していました。

ところが、この時は主イエスという共通の敵を前にして利害が一致します。サドカイ派、祭司長たちは民衆にクーデターを起こさせたくありません。ローマを怒らせたくないのです。一方、ファリサイ派の人々は主イエスが神を冒涜していると言って非難しました。本当は自分たちが冒瀆された、侮辱されたということが我慢ならなかったのでしょう。

そうした中で大祭司のカイアファが興味深い言葉を語ります。49節にこうあります。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」

これは典型的な政治家の言葉です。カイアファは主イエスが良いか悪いかなんていうことはどうでもよい、関係ないのです。主イエスが死ぬことによって、暴動が起きず、みんなが助かるならば、それでよいではないか、というのです。スケープゴートです。

これは今日でもよくあることでしょう。組織を守るために誰かを犠牲にするのです。ある政治団体が1億円の献金を受け取ります。本当は一番上のボスが知っているはずなのに、彼が倒れるとその政治団体全体が倒れかねないので秘書の責任にしてしまう。会社が不祥事を起こすと、本当は会社ぐるみの構造的な問題であるのに、誰か特定の人間がやったことにして、その人を裁いて終りにしてしまう。

この時のターゲットは主イエスです。カイアファの意見にみんなが納得します。本来、対立しているはずの両陣営が、この件では一致をします。主イエスを殺すことに決めたのです。

57節に「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである」とあります。

主イエスは指名手配を受けたのです。

ここで行われていることはドロドロとした人間的なことです。ここで何が起こっているかよく分かります。なぜそうなったのかも分かります。今日でも同じようなことが起きています。そのような人間的な思惑、人間的な駆け引きの中で主イエスが殺されていったということを、ヨハネによる福音書は私たちに告げています。

ところが、ヨハネによる福音書はここに奇妙なコメントを付け加えています。先ほどのカイアファの言葉の直後です。51節から52節にこうあります。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」

全てが人間的な思惑の中で進んでいるにもかかわらず、その背後には神の見えざるシナリオがあったというのです。

それはカイアファ自身も気づいていなかったことでしょう。彼は「しめしめ、うまくいった。みんな自分の思い通りになった」と思っていたかもしれません。しかし、その背後には神がおられたのです。もちろん、それでカイアファの責任が逃れられるわけではありません。神は人間のそうした思いをも用いて御自分の計画を進められるのです。

これは非常に不思議なことです。

私たちは歴史というものを複眼的な視野で見る必要があることを教えられます。全てが人間的な思いで進んで行く中に、実は神の計画が秘められている。そして、気がついてみると、いつの間にか神の歴史になっていた。そのところで人間の責任が逃れられるわけではないのですが、不思議に、神がそれを取り込んでいくようにして御自分の計画を成就される。聖書を読んでいると、そういうことが度々出て来ます。

「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」。この「国民」というのはまずユダヤ人のことです。ところが、主イエスが死なれるのはユダヤ人の救いのためだけではありません。世界の各地に散っている「神の子」とされる者たち、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうがローマ人であろうが、全て神の子として生かされている者たちが、主イエスの死によって一つに集められるのです。

ここで「一つに集める」と訳されているもとの言葉は「集会」とか「会堂」と訳すこともできる言葉です。ヨハネによる福音書はどうしてそんな言葉を使っているのでしょうか。それはこの福音書を書いている時に神の子たちの集会を体験していたからです。「自分たちは皆、神の子とされている。あちこちにバラバラにされていた人間が今ここで一つになっている。これはとても不思議なことだ」。

皆さんもそうお思いになると思います。「散らされている私たちがこうして集められている。よくもこんなに性格も違い、生き方も違っている者たちが一つに集められているものだ」。

 

どうして一つに集まることができるのでしょうか。もちろん、主イエスが死んでくださったからです。主イエスが死んでくださったからこそ、私たちは信仰に生きることができる、希望に生きることができる、愛に生きることができるのです。私たちのところにも神の救いが及んだのです。神の計画が成就したのです。そのことを、今日、私たちは改めて心に刻みたいと思います。