「新しく創造された者」

                                  コリントの信徒への手紙二 51617

                                                 水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の5章の16節から17節です。

16節の始めの所でパウロはこう言っています。「それで、わたしたちは、今後」。

これは前回学んだ15節を受けた言葉です。15節には、自分たちのために死んで復活されたイエス・キリストのために生きる、というパウロの決意が語られていました。ですから、「それで、わたしたちは、今後」というのは、これまでとは全く違う新しい道を歩んで行くことを表しています。では、それはどういう道でしょうか。

私たちの生活は、人をどう見るか、ということで定まると言ってもよいかもしれません。同じ人であっても見方によって全く違ったものになるものです。今までは嫌な人だと思っていたのに、あることがきっかけになって良い人に見えることも珍しいことではありません。そこで、どのように人を見るかということが大切になります。自分の好みに任せて人を見ても正しく見ることにはならないでしょう。それなら、どういう見方があるのでしょうか。

パウロは続けてこう言っています。だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」

「肉に従って知る」とありますが、これは聖書的な言い方で分かりにくいかもしれません。「肉に従って知る」というのは肉を中心にした見方、人間的な見方ということです。

それはかつてパウロが実際にしていたことです。ファリサイ派の一員として生きていたとき、パウロはキリストの教会を敵と見なしていました。イエス・キリストを、救い主と自称するただの一人の男としか見ていませんでした。以前のパウロはまさに肉に従って見る者として歩んでいたのです。

しかし、今は違います。イエス・キリストの十字架と復活によって救われたパウロは、自分がこうして生きているのはイエス・キリストのお陰だと思うようになりました。今はイエス・キリストを主として仰ぎ、イエス・キリストによって生きています。イエス・キリストを迫害していた者がイエス・キリストを愛する者になったのです。彼はもはや、肉に従って人を見ることも、イエス・キリストを見ることもできなくなったのです。

イエス・キリストを肉に従って知ろうとする人は今でも少なくありません。そういう人は何か不十分なものを感じるのではないでしょうか。なぜなら、聖書はイエス・キリストを信じる信仰によって書かれているからです。

そこで、パウロは17節の前半に、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも」と言っています。

「キリストと結ばれる人」というのは、肉に従わずにイエス・キリストを知る人のことです。すなわちイエス・キリストを信じる人です。イエス・キリストによって生かされる生活をする人です。そういう人はだれでも「新しく創造された者だ」とパウロは言います。

考えてみると、新しく創造されるというのは大変なことです。

「創造される」という言葉を聞いて私たちが思い起こすのは、神が初めに天地をお造りになったあの出来事です。イエス・キリストを信じる者にはあの時のような変化が起こるのです。

あの時には何もないところから天地が創造されました。今はどうでしょうか。人間は神に造られた者なのに神に背き、堕落し、滅びようとしています。それなら、そこに新しい創造が起こることは、何もないところに天地が造られるよりも、もっと難しいでしょう。ですから、新しい創造にはイエス・キリストの十字架と復活が必要だったのです。

新しく創造されるといっても、いったい何がどうなるのでしょうか。イエス・キリストを信じても何の変化もないではないか、と言う人もあるかもしれません。

この新しい創造において大切なことは、それを為してくださるのが神だということです。ですから、新しい創造において何よりも大切なことは、神との関係が変わることです。私たち人間には罪があったのに、神はそれを赦してくださり、私たちを神の子としてくださいました。私たちは神を父と呼ぶことができるようになったのです。私たちはそのような新しい関係に生きる者となったのです。

17節の後半にこうあります。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

「古いもの」とは何でしょうか。かつてユダヤ人の一人として生きていたパウロにとっては、特別の思いがあったと思います。パウロは神から選ばれた者のしるしとして割礼を受けていました。また神によって生きる道として律法も与えられていました。それによって、ユダヤ人としての誇りを持つことができましたし、異邦人に対して優越感を持つこともできました。しかし、イエス・キリストの救いを受けた今、それらのものが皆、何の価値もなく、ただ「古いもの」になってしまったことに気がついたのです。「古い」というのは年代が古いということだけではありません。役に立たなくなったのです。それらのものには人間を救う力がないことが分かったのです。

ある人が、この「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」という言葉には突然の驚きが表わされている、と言いました。これは、段々と分かってくるのではなくて、思いもかけない仕方で突然分かるものだというのです。救いは思いもかけない仕方で突然やって来るのです。

パウロにもその経験がありました。彼はダマスコの町にキリスト者を捕らえに行く途上で、突然、天からの光に照らされ、イエス・キリストから声をかけられました。それは予想もしていなかったことでした。

またある人は、この「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」という言葉には凱旋の響きがある、と言います。勝利の調べがあるというのです。自分は勝った、罪と死に対して勝利した、そういう信仰がここには言い表されているというのです。

信仰は、何かを信じたというだけではありません。救われたということです。ですから、私は勝った、罪と死に対して勝利した、イエス・キリストによって勝利した、ということがなければならないのです。

私たちは神によって新しく創造された者です。もう既に新しくされているのです。ですから、後戻りの心配はありません。私たちは新しい世界の中に生きているのです。生かされているのです。

旧約聖書のイザヤ書の43章には、この新しい世界のことが書かれています。その19節から21節にこうあります。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」

新しい世界とはこのようなものです。それは、最後の所に「彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」とあるように、神の栄光を人間に語らせるために神が新しくお造りになるものなのです。