「主の物語を受け継ぐ」

                         使徒言行録1311

                                                   水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所は使徒言行録の1章の3節から11節です。

地上における主イエスの歩みは、十字架と復活の出来事を経て、エルサレムの近郊で起こった昇天の出来事によって終わりを迎えました。

この時、復活のイエスは弟子たちの見守る中で天に上げられ、その姿は雲に覆われて見えなくなったと伝えられています。9節にこうあります。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」

復活のイエスが天に昇られた日、昇天日はイエスと弟子たちの別れの日です。これまで何年間にも渡って共に歩み、教えを受け、イエスの様々な働きを目にしてきた弟子たち、そして、十字架と復活の出来事を経験してきた弟子たちは、今やイエスに別れを告げるのです。

昇天するイエスを見つめながら、弟子たちは置き去りにされたような気持ち、見捨てられたような思いを持ったかもしれません。彼らはこれから先、自分たちで歩き続けていかなければならないのです。

主イエスは天に昇り、弟子たちは地上に留まりました。けれども、主イエスの最後の言葉は「さようなら」ではありませんでした。

この時、主イエスは弟子たちに向かってこうおっしゃいました。8節です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全度で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

それは弟子たちに聖霊を送るという約束であり、弟子たちが全世界に向かって主イエスの証人として歩み出すことを命じる言葉でした。

同じようにマタイによる福音書においても、主イエスの最後の言葉は、弟子たちに向かってすべての民に対する宣教を命じる言葉であり、また、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束だったと伝えられています。

主イエスは「さようなら」を言いません。どんな時にもおっしゃいませんでしたし、この昇天の時にもおっしゃいませんでした。

ある宣教師が次のような言葉を書いています。「別れの多い人生を送っている人間の一人として、私は文学の中の別れの場面を興味深く読みます。『さよなら』を多く言わなければならないので、文学の中の別れの言葉に敏感になりました。別れとは悲しいことです。寂しいことです。できることなら避けたいものです。しかし、生き別れを避けても、死に別れを避けることはできません。こういう時に『さよなら』を決しておっしゃらないイエスを知ることは、どれほど大きな支えになることでしょう」。

人生の日々を送っていく中で、私たちは何回、「さようなら」を言わなければならないのでしょう。出会いがあれば、また必ず別れがあります。そして、この世に生まれてきた以上、私たちはいつかは必ずこの世に別れを告げ、愛する家族や友人、多くの人々に「さようなら」を言わなければなりません。

そのような時、「さようなら」を言わない主イエスの姿、いつも共にいてくださることを約束してくださる主の言葉こそ、私たちを最後まで慰め、支えてくれる源です。この昇天の場面でも、主イエスが「さようなら」を言わなかったという事実を、私たちはまず心に留めたいと思います。

しかし、この昇天の日を境にして、弟子たちが主イエスの姿を直接、目にすることがなくなったということも事実です。イエスと弟子たちとの関係はこの日を境にして新しい形へと変わっていったのです。

思い返してみれば、この日、天に昇ってゆかれた方は、それよりも30年ほど前、天から地上へと降って来られた方でした。クリスマスの夜、神のもとから地上へやって来た主イエスが今再び、神のもとへと戻っていかれるのです。

主イエスの物語は、あの晩、ベツレヘムの片隅に起こった一人の赤ん坊の誕生から始まりました。その日、神は人となって地上に降って来られたのです。やがて、その子は成長し、世に現れ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。そして、この方は神の国の訪れを告げる福音を語る人となり、病に苦しむ人々を癒し、悪霊を追い出し、人々と共に喜びの食卓を囲みました。様々な境遇の人々がこの方の周りに集い、共に新しい世界を夢見る神の民の群れを形作りました。それから、主イエスはエルサレムに上り、受難の道を歩み、人々の悪意と憎しみによって逮捕され、侮辱され、暴行を受け、遂に十字架につけられ、死んで、三日目に復活し、そして、天に昇られたのです。これが、私たちキリスト者の受け継いできた主の物語です。

フィリピの信徒への手紙の2章はこの物語をさらに要約する形で主イエスの生涯について語っています。フィリピの信徒への手紙の2章の6節から9節にこうあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

最初の頃の教会の賛美歌であったとも言われるこの賛美歌の中では、主イエスがこの世の最も低いところにまで降って来られたことが強調されています。そのようにして主イエスご自身が低い者、小さな者、弱い者として生きた方であったからこそ、主はこの世界の中で低いところに置かれている人々、小さくされている人々、弱さの中に置かれている人々を知り、共に歩み、愛の交わりの中に生きることができたのです。そして、そのような主イエスの生き方こそ神の御心に適うものであったということが、この賛美歌の中で宣言されているのです。

弟子たちはそのような主イエスと共に歩み、主の言葉を親しく聞き、その行動を親しく見つめてきた人々です。彼らこそ、主イエスがその生涯を通して歩み続けてこられた主の物語を最も身近に経験してきた人間にほかなりません。

主の物語を共に経験した弟子たちはこの物語を語り継いでいく責任を担い、この賛美歌を歌い継いでいく責任を担います。それはまた、ここから弟子たちの信仰の物語が始まるということであり、神の民の物語、すなわち彼らの物語が始まるということでもあります。

主の物語を語り継ぐために、弟子たちはその物語を繰り返し思い起こし続け、主イエスに感謝と賛美を献げると共に、実際に自らがその物語から始まった福音を生き、信仰と希望と愛によって歩み続ける彼らの物語を生み出していかなければなりません。

主の物語の終わりは私たちの物語の始まりに繋がります。主の物語は私たちの物語に受け継がれていくのです。そして、私たちの物語は主の物語を永遠の礎として様々な時代と状況の中で常に新たなものとして生み出されていくのです。私たちはそのような私たちの物語を真摯に歩みつつ、やがて再び来られる主イエスを待ち望む神の民なのです。

今日の聖書には「白い服を着た二人の人」が登場し、主イエスの昇天を見つめていた弟子たちに向かって「なぜ天を見上げて立っているのか」と告げたことが書かれています。11節です。そして、言いました。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

「だからこそ、もはやいつまでも天を仰いで立ち尽くしているのではなく、主イエスが命じられたように、この地上であなたがたのなすべき務めを果たすために新しい一歩を踏み出しなさい。あなたのまなざしを天の高みからこの地上へと移し、あなたがたの歩みを始めなさい。あなたがたの物語を開始しなさい」。この二人はそのように語っています。

昇天日、それは主の物語の終わる日です。そして、それは私たちの物語の始まる日です。

「さようなら」を言わない主イエス、それどころか「いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださる主を覚えつつ、私たちに与えられた人生において主の御用のために励みたいと思います。

やがていつの日かこの方から与えられる「忠実な良き僕よ」との言葉を待ち望みながら、私たちに与えられたこの時代の課題に取り組み、神の国の栄光を僅かなりとも指し示すために努めたいと思います。

主にあって私たちに与えられている状況、隣人と自分自身の姿を誠実に見つめ、今この世にあって私たちの成すべき責任を黙々と果たし続けていく時、私たちの物語が形作られていきます。

 

そのようにして、神の民が耐え忍びつつ、この地上の道を一筋に歩み抜くことを通し、やがていつかこの道こそが実は天の高みに至る道であったことに気づく日が、やって来るに違いありません。