「神と共にある生」

             イザヤ書71014節、マタイによる福音書12325

                                                   水田 雅敏 

 

神の御子の誕生が告げられるマタイによる福音書の1章の23節に、「インマヌエル」という言葉が出てきます。

この言葉が聖書に最初に登場するのはイザヤ書においてです。イザヤ書の7章の14節にこうあります。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」。

今日は、この「インマヌエル」について聖書から学ぶことを通して、クリスマスの意義をご一緒に考えていきましょう。

まず、イザヤ書においてこれがどういう状況において語られたのかを、改めて見てみましょう。これは紀元前730年頃、南王国ユダの王アハズに対して預言者イザヤが語ったものです。

その頃、アッシリアという大国が猛威を振るっていました。北王国イスラエルやその他の小さな国は同盟軍を結成して、アッシリアに対抗しようとしていました。そして、南王国ユダもこの同盟軍に加わることが盛んに呼びかけられていました。

それに対してユダの王アハズは、この呼びかけを拒否します。それは自分の国の軍事力に自信があったからではありません。また、神を信じる信仰に立って毅然とした態度を示したということでもありません。要するにアハズはどうしたらよいか分からなかったのです。彼は苦悩の真っただ中にあったのです。

その時のアハズの様子が2節に描かれています。「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」。

アハズは、どこに自分自身の、そして自分の国の存在や生存の根拠を置けばよいのか分からないままに、その心は風に動かされる木々のように揺れ動いていたのです。

このように、どこに自分の生の根拠や土台を置いたらよいのか分からないという状況は、今日においても多くの人々が抱えているものではないでしょうか。

そのような中でアハズが出した結論は、何と脅威の的となっている当のアッシリアと手を結ぼうということでした。

これに対して預言者イザヤは強く反対をします。「苦しまぎれにアッシリアに助けを求めることなどすると、逆にユダの国は侵略され、食い尽くされてしまうだろう。そんなことをしてはいけない」とアハズに説いて聞かせるのです。

その上でイザヤは、「あなたの神、主にどうしたらよいか求めよ。陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に」、つまり、現実の問題の解決を、そこにある事柄と同じ次元で考えずに、現実を超えたところに求めよと勧めるのです。11節にそのことが書かれています。つまり、イザヤは、「神御自身に自分たちがどうあるべきかを尋ね求めよ」と説いているのです。

私たちが遭遇する様々な困難や不安や危険は、私たちの生活のただ中にあります。日々の生活の中にそれらはあって、私たちを悩まします。それらの問題が手近にあるために、私たちはそれらの解決もまた同じように手近なところに求めがちです。しかし、そのようにしてみても、実際には真の解決になり得るものをなかなか見い出せないで苦悩が続く、ということが多いのではないでしょうか。

ある人が、「信仰は一種の疑問である」と言っています。この場合の「疑問」とは、神に対するものではなくて、この世の力に対するもののことです。この世の知恵、力、方法、手近に得ることのできる解決策といったものを疑ってみるのです。「果たしてそれでよいのだろうか」と問いかけてみるのです。そして、もっと別の次元、別の世界からものを見ようとしてみるのです。その時、目に見えないものへの新しい目が開かれてくることがあります。それが信仰への道となります。

預言者イザヤは、小手先のことで現実の問題を解決しようとするアハズに、「天を見よ。神に求めよ」と訴えています。そして、自ら神によって示されたことを告げ知らせます。それは、「一人のおとめが男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。それを見たならば、あなたは神が自分たちと共にいてくださることを確信してよいのだ」という内容のものです。

「インマヌエル」とは、マタイによる福音書で説明されているように、「神がわたしたちと共におられる」という意味の言葉です。「ある特別な誕生の出来事が起こる時、神が共にいて救ってくださることのしるしとして、それを求め、それによって平安であれ、慰めを得よ」と、神はイザヤを通して告げておられるのです。

人間は慰めを必要とする存在です。幼子から年を重ねた者に至るまで全て同じです。貧しく生きている者から、いろいろな面で富んでいる者に至るまで、全て同じです。健康な者から、死に直面している者に至るまで、全て変わることはありません。慰めを受けるということ、平安の源を持っていること、これは人が人として生きて行く時に不可欠のことであると言ってよいでしょう。

そして、それぞれの状況でふさわしい慰めというものがあります。病の時に癒されることは慰めとなります。意気消沈している時にあたたかい励ましを受けることは慰めです。困難な問題に直面している時にその困難さを正しく理解してくれる人がいるということは大きな慰めです。それらのことを軽く考える必要はないでしょう。

しかし、どんな時にも通用する慰めは、神が私と共にいてくださるという事実です。かりそめの慰めでなく、その場限りの慰めでなく、どんな人にとっても、いかなる状況においても、最もその人を慰めるもの、それは神が私を離れずにいてくださるという事実です。

ある本にこういう問答が書いてありました。「問。生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答。私が私自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主、イエス・キリストのものであることです」。

信仰に生きるということは、神が自分と共にいてくださることがよく分かるということ、その心が育てられるということです。主イエスを信じる時、神が傍におられることをも信じるのです。慌てて神を捜しまわる必要はなく、目には見えなくても傍にいてくださる神、私の全ての課題を私と共に担うために、いつも手を伸ばしていてくださる神、それを確信できるのが私たちキリスト者です。

インマヌエル、神がわたしたちと共にいてくださる。その預言が完全な意味で実現し、そのことを私たちが確信してよいという神からのしるし、それが主イエスのこの世への誕生の出来事です。主イエスの生と死が、神が私と共にいてくださることの確かな保証です。信仰がそのことを受け入れさせます。

共にいるということは、愛の一つの形です。誰かが共にいてくれることによって、私たちは慰めや平安や喜びを与えられます。

しかし、これを破るもの、破壊するものがあります。それが私たちの罪です。他者を自分の目的のために利用する、手段とする。他者を犠牲として自分自身を大きく膨らませていく。そういう罪が私たちにはあります。

罪は人と人とを分断してしまいます。罪は人を孤立させてしまいます。神との関係も、この罪によって、人間のほうから分断してしまっています。私たちはそのようにして、様々な形の分裂を味わい、生み出し、それによって自ら苦悩を抱え込む者となっています。

そのように抱え込んだ人間の苦悩は、神の苦悩でもあります。神御自身それを真剣に問題とされます。それゆえに、自ら天の住まいから立ち上がられて、人間が破った関係の修復のために、その回復のために、この地上に降りてきてくださったのです。そして、「わたしは、あなたと共にいる」と告げてくださったのです。

マタイによる福音書の1章の21節にこうあります。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。

「イエス」と名付けられた方はインマヌエル、神は私たちと共にいてくださるという神の約束の実現であり、神の約束の内容そのものです。このイエスを見ることによって神を見よ、このイエスを信じることによって神を信じよ、このイエスを救い主と確信することによって、いかなる時にも神が共にいてくださることを確信せよと、私たちは呼びかけられているのです。

主イエスは死んで復活し、天に昇って行かれる時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。それは、神がいつもこの私を心にかけていてくださる、顧みていてくださるということです。足がよろめくと思った時、御手をもって支えてくださるお方として、私たちには神がおられるのです。

この神の真実に生かされている自分であることを知る時、私たちは自由にされて、自分自身からも自由にされて、他の人々に向かうことができる者とされるでしょう。その時、私たちは、孤独や孤立、憂いや悲しみ、絶望や死への傾きの中にある人々に、真の慰めを運ぶ者とされるでしょう。

 

私たちと共におられる神は常に、「真実であれ。誠実であれ。自由であれ。愛せよ。憎むな」と私たちに語りかけておられます。私たちの内に響くこの御声に促され、導かれつつ、神が共にいてくださる慰めの事実を持ち運ぶ者として生きる生が、私たち一人一人に開かれています。クリスマスは、そのような神と共にある生を、新たに踏み出す時なのです。