「永遠の住みか」

 

                        コリントの信徒への手紙二 515

                                           水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の5章の1節から5節です。

この箇所は4章の18節からの続きです。

4章の18節の前半でパウロはこう言っています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」

「見えないもの」という言葉を聞いて思わされることの一つは、死んだあとの生活です。私たちは死で終わる生活をしています。そうであるならば、死んだあとにどうなるのかということについて、できる限り知っておかなければ、信仰生活をすることはできないのではないでしょうか。

では、見えないものに目を注ぐ信仰生活とはどういうものなのでしょうか。

4章の18節の後半にこうあります。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

見えないものに目を注ぐ信仰生活というのは、「永遠に存続する」ものに目を注ぐ生活です。私たちは永遠に存続するものを思う生活をするのです。

このような信仰生活の仕方は、今日ではしばしば忘れがちなのではないでしょうか。信仰生活をするといいながら目先のことだけを考える人が少なくありません。過ぎ去る生活のことにばかり心を奪われているのです。私たちは永遠に存続するものを求めて生きる者であるのに、そのことを思わなくなっているのです。

永遠に存続するものを求めて生きる者は、死ののちのこと、天の生活を考えないわけにはいきません。

今日の聖書の1節の前半に「神によって建物が備えられている」とあります。

また1節の後半に「天にある永遠の住みか」とあります。

さらに2節と4節の後半に「天から与えられる住みか」とあります。

パウロはこの三つの言い方で天の生活を説明しようとしています。この三つは三種類の別々ことを言っているのではありません。このように言い分けて、天の生活の重要さを示そうとしているのです。

それに対してパウロは地上の生活を「幕屋」と言っています。1節と2節と4節にその言葉が出てきます。

幕屋はイスラエルの人々が昔、遊牧生活をしていた時に用いたものです。しかし、パウロの時代には、イスラエルの人々はもはや幕屋には住んでいませんでした。町には壮麗な神殿や様々な建物がありました。ですから、ここでいう「幕屋」というのは野原で用いられるテントのことです。それは壊れやすく不完全なものという意味で語っているのです。

私たちの地上の生活は、テントを張っているように、弱く、もろいものです。いつどんなことに出会わないとも限らない、はかないものです。ほころびができるたびに、あちらを繕い、こちらを整えるというようなことをして保っている状態です。それは、弱く、崩れやすいというだけではなく、真に神と交わることのできる生活になっていないということです。

2節に「この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」とあります。

また4節の前半に「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいております」とあります。

私たちは食べることや着ることのために、苦しみ、もだえています。重荷を負っています。しかし、どんな生活もやがては死によって終わりを迎えます。死によって滅びてしまいます。ですから、私たちの真の敵は死です。そうであるなら、私たちの切なる願いは、天から与えられる永遠の住みかを上に着ることではないでしょうか。それは神との完全な交わりに入れられるということです。私たちはそれを切に望んでいるのです。

1節に「わたしたちは知っています」とあります。

ここに語られていることは、単なる議論ではなく、私たちが信仰の経験として知っていることだというのです。

これはとても大事なことだと思います。天から与えられる永遠の住みかでの生活を願う人は、ここに語られていることをただのおとぎ話のようなものとして知るのではありません。苦しみ、もだえる生活の中で重荷を負って、うめく生活の中で知るのです。知らされるのです。

どうして、私たちは苦しみ、もだえなければならないのでしょうか。重荷を負ってうめかなければならないのでしょうか。いつかは滅ばなければならない存在だからでしょうか。そうであるなら、私たちを滅びさせるものとは何でしょうか。

その中心にあるもの、それは罪です。聖書が示す救いというのは罪からの救い以外の何ものでもないのです。

では、罪による滅びから私たちを守ってくれるものは何でしょうか。それはイエス・キリストの復活の命です。

4節の後半に「死ぬはずのものが命に飲み込まれて」とあります。

イエス・キリストの復活の命に飲み込まれることによって、私たちは罪による滅びから守られます。この地上を離れても、イエス・キリストの復活の命の中に生きることができるのです。

5節の前半にこうあります。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。」

神は、滅ぶべき存在である私たちをイエス・キリストの復活の命で包んでくださるのです。ですから、ここに語られている話は決して特別な話ではありません。私たちがイエス・キリストの救いによって救われるという事実に固く結びついています。イエス・キリストによって救われた者なら、誰でも望むことのできることであり、また与えられることなのです。

それでは、その保証はどこにあるのでしょうか。そのことが事実であることはどのようにして確かめられるのでしょうか。

5節の後半にこうあります。「神は、その保証として〝霊〟を与えてくださったのです。」

「〝霊〟」とは聖霊のことです。聖霊は私たちに神の御業について確信させてくださいます。周りの事情によって私たちの信仰が揺らぐ時に、聖霊はその都度、神の約束が変わることなく確かであることを信じさせてくださるのです。

9節にこうあります。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」

信仰を持つことはイエス・キリストを愛することだということをパウロはよく知っていました。そして、彼にとってイエス・キリストを愛することは、イエス・キリストと共にいることでした。ですから、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と祈り願っているのです。

 

天にある永遠の住みかはイエス・キリストを離れてはありません。それはイエス・キリストと共にいる者のみが知ることのできるものなのです。