「起き上がりなさい」

                                                ヨハネによる福音書5116

                                                                                                                水田 雅敏

 

今日からヨハネによる福音書の5章に入ります。

舞台はエルサレムです。エルサレムの北、約350メートルの所に「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。その池は二つ並んでおり、周りに五つの回廊がありました。漢字の「日」、「日にち」の「日」という字を想像していただければよいかと思います。周りの四つの回廊のほかに、その中央に二つの池を隔てる回廊があったのです。

「ベトザタ」というのは「憐れみの家」、あるいは「恵みの家」という意味です。しかし、この池の周りの情景は「恵みの家」という名前からはほど遠いものでした。その回廊には病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていました。というのは、この池には病気を癒す力があると信じられていたからです。

この新共同訳聖書には3節の後半と4節が欠けています。この福音書の21章の終りの部分にそれが記されています。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」

私はこのベトザタの池の情景を思い浮かべると心が痛む思いがします。そして、その情景は私たちの社会の縮図でもあるように思います。確かに今日では、この時代と比べると、多くの病気が克服されました。これまで絶対に治らないとされてきた病気でも、その原因が解明され、治療方法も見出されてきました。しかし、逆に、これまでは存在しなかった新しい病気も出現して、別の形で不治の病というものが存在します。病気というものが今日においても私たちを襲う最も大きな苦しみの一つであることには変わりありません。そういう意味で、この病気に苦しめられている人々の姿は今日でも決して変わらないと思います。

そして、さらに心が痛むのはこの病気で苦しんでいる人の言葉の中に表われている事実です。

それは、一つには「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいない」ということです。つまり、この人には病気を共に苦しみ、病気が治ることを共に祈り願ってくれる隣人がいないということです。家族からも見放されていたのでしょう。38年です。おそらく、神殿から何がしかの食べ物、神殿に献げられた物の残りなどが配られていて、命を繋いでいたのでしょう。

二つ目は「わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行く」ということです。水が動いた時を見計らって何とか必死で入ろうとしても、自分より軽い病気の人が先に入ってしまうのです。彼のために同情してくれる人がいないだけでなく、こうした最も励まし合い、慰め合いが必要な所においてすら競争原理が支配していたのです。このことも非常に今日的な光景ではないかと思います。

三つ目はこの人の言葉に直接表われていない事柄です。それは彼の絶望、諦めです。この彼の言葉は、もともとは主イエスの「良くなりたいか」という問いに対する答えでした。ですから、「はい、良くなりたいです」とか、「もちろんです」とか、そういう答えが求められていた場面です。しかし、彼はもはやそう答える気力もないほど治ることを期待していません。

「何回その言葉を聞いたか分かりません。しかし、誰も治すことのできる人はいませんでした」と思ったかもしれません。あるいは「何を当たり前のことをお聞きになるのです」と思ったかもしれません。あるいは「もう、そんなことは聞かないでください」と思ったかもしれません。しかし、そういうことさえ口に出さないのです。彼はもうこの病気の状態に慣れ切っていて、事態はそこから変わり得るということを全く期待していないのです。

そのように絶望し諦め切っているこの人の前に主イエスが現れて、「良くなりたいか」と尋ね、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命令をされました。

この「起き上がりなさい」、「床を担ぎなさい」、「歩きなさい」という命令は、絶望と諦めの中から新しい出発を促す象徴的な言葉です。

「起き上がる」という言葉は、もともとは「目を覚ます」という意味でした。さらに興味深いのは、この福音書の2章に出て来る主イエスの言葉で「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」という言葉がありましたが、あの「建て直す」というのも同じ言葉であり、さらに「死人を復活させる」というのもこの言葉なのです。この人を主イエスが立ち上がらせたということは、あたかも死人を復活させるような出来事だったのです。「良くなりたいか」という問いにまともに答えることすらできないこの人に、主イエスは「目覚めよ」「立て」「起き上がれ」と言われたのです。

次は「床を担ぎなさい」という言葉です。この「床」というのは、これまでこの人がそこに横たわっていた場所、いわば彼を担いでいたものです。「これからは反対に、あなたがそれを担ぐのだ」ということです。「もうそれには頼ることはない」という積極的な姿勢を示しています。

三つ目は「歩く」ということです。歩き始める、もうその同じ場所にはいない、そこから前進していくのです。

しかし、この物語は残念ながら、それでハッピーエンドで終わるわけではありません。「その日は安息日であった」と続いていきます。

当時、ユダヤでは安息日にはどんな仕事もしてはいけませんでした。ところが、この人は主イエスに言われた通り床を担いで歩いていたので、それをユダヤ人たちに見とがめられました。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」

これは私たちには何かおかしな話のように思えますが、これを理解する前提として、安息日律法の本来の精神は何であったかということを確認しておきたいと思います。

安息日律法の精神とは、申命記の5章の12節以下に書いてあるように、一つは、安息日を聖別する、清いものとして取り分ける、そのことによって神を神として立てるということです。

そして、これのほかにもう一つ忘れてはならないことは、自分が休むだけではなくて、奴隷も家畜もみんな休ませなければならないということです。このことは、いわば上から強制的に命じられないとなかなか実行されません。雇用者、あるいは奴隷の主人というのは、その下で働いている者の休む権利を平気で踏みにじるからです。ですから、安息日律法というのは弱い立場にある者たちへの配慮に満ちた律法であったと言うことができます。

しかし、ここに登場するユダヤ人たちは、そうした安息日律法の根幹にある精神を考慮に入れることなく、この律法を表面的に受け止め、それによって善いことをすることまで禁じ、裁こうとしました。この人が安息日に床を担いでいたことを見とがめ、ひいては主イエスの癒しの業をも裁こうとしたのです。

さて、このあとこの人は神殿の境内で主イエスに再び出会うと、主からこういう言葉をかけられました。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」

私たちはこの言葉をどう理解したらよいでしょうか。

この言葉は一見すると、この人が病気であったのは彼の罪の結果であったと受け止められかねない言葉です。しかし、もしそうだとすれば、このあとの9章で主イエスが、生まれつき目が見えない人におっしゃった言葉と矛盾することになります。主イエスはそこでこうおっしゃっています。「この人が、生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が、この人に現れるためである。」

ある人がこういうことを言っています。「罪とは主イエスを拒むことである」。

主イエスを拒むということは、いったん主イエスを受け入れながら、主イエスを見失ってしまう、イエスを救い主として見ることができなくなってしまうということです。つまり、彼が主イエスに出会って大きな御業をしていただいたにもかかわらず、主を知らずにいた以前の状態に戻ってしまう、そのことを、主イエスは「罪」と呼んでおられるのではないかと思います。

そうであるならば、これは私たちにも通じることではないでしょうか。私たちは主イエスと出会って、それによって立ち上がらされ、新しく歩み始めた者たちです。キリスト者とはそういう存在です。しかし、それは既に確保したものとしてずっと続くわけではありません。いつも新しく主イエスの言葉を聞き、いつも新しく立ち上がらせていただかないと、私たちはやがて主を見失ってしまいます。そうすると、私たちはすぐにまた罪の中に舞い戻ってしまいますし、「さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」という主イエスの言葉が私たちにも響いてくるのではないでしょうか。

 

「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。私たちはこの言葉を、私たち自身に語られたものとして、今日新しく聞き、今日新たにされて、ここから歩み出したいと思います。