「神の栄光を求める」

                     ヨハネによる福音書71424

                                                  水田 雅敏 

 

前回から私たちはヨハネによる福音書の7章を読んでいます。

2節に「ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた」と記されていました。

仮庵祭というのはユダヤ人の最大の祭りの一つで、過越祭、五旬祭と並ぶものです。もともとは収穫を感謝する秋の祭りでした。それに出エジプトの際の荒れ野の天幕生活、テント生活を思い起こすという歴史的な意義が加わっていきました。

仮庵というのは仮小屋、つまり荒れ野でイスラエルの人々が生活したテントのことです。仮庵祭の時には自分の家の中庭や屋上に仮小屋を作ります。枝や葉によって作ります。立派な木材を使ってはいけません。そこで八日間の生活をします。子供たちはワクワクしたかもしれません。

人々は詩編の「都もうでの歌」を口ずさみ、エルサレムへ隊列をなして巡礼します。神殿では犠牲が献げられ、荘重な水汲み、水注ぎの儀式が行われ、夜ごとの祭典で賑わったそうです。

さて、主イエスはその仮庵祭の半ばに達していた頃に神殿の境内に上って行き、教え始められました。するとそれを聞いていたユダヤ人たちが驚きました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。

一般に人々の前で話をするのはそれなりの学問を積んだ人でした。しかし、主イエスはそれを受けていないにもかかわらず、人々に教えられました。それだけであれば「何だ、あいつは」と言ってつまみ出されたかもしれません。ところが、そうさせない何か、人を惹きつける何かが主イエスにはあったのです。

「どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。この「知っている」というのも、ただ聖書の学者たちがよく勉強して「知っている」というのとは質的に違った何かがあったのでしょう。主イエスが具体的にいったい何をどう教えられたのかということは分かりません。

マタイによる福音書には「山上の説教」と呼ばれる一連の主イエスの教えが記されています。その最後にはこう書かれています。マタイによる福音書の7章の28節以下です。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。この仮庵祭の時も、主イエスは「権威ある者として」お教えになったのでしょう。

では、「権威ある者」とはどういうことでしょうか。主イエスはその秘密について16節でこう説明しておられます。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」

この言葉だけを取り上げれば、学問を積んだ律法学者たちも同じことを言ったかもしれません。「それはこっちのセリフだ」。彼らも聖書の解釈が自分勝手にならないように、神の御心を探るために一生懸命、勉強していたのです。

ところが、学問というのは両刃の剣です。勉強すればするほど、それを巧みに操ることもできるようになります。それを都合よく自分に不利にならないように、自分を守るために用いるのです。一見、神の御心を語るように見せて、実は巧みに自分を持ち上げるのです。神学を学べば学ぶほどそういう危険性が裏腹についてくるのです。

21節で主イエスはこう言っておられます。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。」

この言葉の前後を読んでみても、この「一つの業」というのが何を指しているのかよく分かりません。実は、これは5章に出てくる話しに基づいています。5章の所で主イエスは、エルサレムのベトザタの池のほとりで38年間、病に苦しんでいた人を癒されました。そして、それが安息日でした。そのことを取り上げて、ユダヤ人たちは主イエスを非難していました。

主イエスはそのことを知っていて、今日の聖書で割礼の話を持ち出されます。22節にこうあります。「モーセはあなたたちに割礼を命じた。…だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。」

これはレビ記の12章の3節に基づいています。そこにはこう記されています。「男児を出産したとき…八日目にはその子の包皮に割礼を施す。」

ユダヤ人たちは安息日であっても、八日目に割礼を施すことは守らなければならないと考えていました。彼らは安息日にも仕事をしていたのです。たまたま出血が止まらなかったりしたら、お医者さんも呼んだことでしょう。彼らはそれを自覚的にか、無自覚的にか、いずれにしろ、安息日の律法よりも優先する事柄を設けていたのです。

そのことを前提にしながら主イエスはこう言われます。「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。」

これは説得力のある説明です。割礼というのは男の子の体の一部を切ります。「体全体から見れば、そうした体の一部に過ぎないことに関わる事柄で安息日の律法に違反することが認められているのであれば、『全身』、体全体を癒すというもっと大事なことがどうして認められないのか」と言われるのです。

細かいことにこだわってもっと大事なことがおろそかになってしまう。原則を貫こうとするあまり本質的な事柄からだんだん逸れていってしまう。筋道を優先しようと思って神の御心と反対の方向へ行ってしまう。そうした危険性があるのです。

これは今日の世界を見る時にもとても大事なことだと思います。同じ聖書を読み、同じ神を信じ、同じキリスト者であるはずの人間が、一方は戦争に突き進んで行くことを肯定し、一方は反対をします。いったいどちらが神の御心なのか。両方とも神の御心を主張し、字面だけを見れば、その根拠となるように見える聖書の箇所を引用します。

私たちは本当の神の御心はどこにあるのかということを見抜くアンテナを持っていなければなりません。

その一つの指針は「うわべ」よりも「心」ということでしょう。24節で主イエスはこう言っておられます。「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

これは、そこに「愛」があるかどうかということであるように思います。主イエスは字面を重んじることで主客転倒が起こること、律法を大事にしているようであって神の御心から逸れていく可能性を指摘されたのです。

そうしたことを考えると、17節から18節で語られていることも、よく分かる気がします。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」

 

ひと言でいえば、自分の栄光を求めるか、神の栄光を求めるかです。一見、神に栄光を帰しているように見えながら、巧みに自分自身の栄光、あるいは自分の国の栄光を求めているということがしばしばあります。私たちは主イエスが字面ではなく本質、うわべだけでなく愛に基づいて行動なさったことを学び、私たち自身も神の御心を行う者になっていきたいと思います。