「人は新たに生まれる」

                     ヨハネによる福音書223310

                                                 水田 雅敏 

 

ヨハネによる福音書の2章の23節から25節は3章への繋ぎのような働きをしていますが、よく読んでみると深い内容を持った箇所であることが分かります。

23節に「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とあります。

主イエスのなさったしるし、すなわち奇跡を見た多くの人がイエスの名を信じました。その奇跡がイエスを救い主として信じるしるしとして彼らの信仰を導いたと言うことができるかもしれません。

ところが、24節ですが、「イエス御自身は彼らを信用されなかった」というのです。

この「信用されなかった」という言葉は、その直前の「イエスの名を信じた」の「信じた」と原文では同じ言葉が使われています。人々はイエスを救い主として信じたけれども、主イエスのほうでは彼らを信じなかったというのです。

どうしてでしょうか。奇跡を見て信じる信仰というのは、その中心にまだ自分がいて、自分が変わること、新しくなることは考えられていないからです。

奇跡と信仰の関係について考えると、こういうことが言えるのではないかと思います。

まず、奇跡を見て、不十分ではあるけれども何らかの信仰を持つというレベルです。このレベルの信仰の代表選手のようにして、3章の初めにニコデモが登場します。

その次は、奇跡の背後にある意味を見抜いて、主イエスこそ真理であると受け入れる信仰、一つ進んだ信仰です。例えば、弟子のペトロの信仰です。彼は弟子たちの多くが主イエスから離れ去った時に、残った弟子たちを代表して次のように言いました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

もう一つ先は、奇跡を見ないで信じる信仰です。ヨハネによる福音書の20章には復活の主イエスが弟子のトマスに出会われた話が記されています。「自分は、この指を、主イエスの釘跡に入れてみなければ信じない」と言っていたトマスの目の前に、復活の主が現れ、「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」と言われました。

この主イエスの言葉からも分かるように、奇跡というのは信仰に入るきっかけに過ぎないのであって、本当に大事なのはそこから先なのです。

では、今日の聖書に登場するニコデモとはいったいどういう人物だったのでしょうか。

3章の1節にこうあります。「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」

まず、ニコデモはファリサイ派に属する人でした。厳格な律法の教育を受けた人です。

次の「ユダヤ人たちの議員であった」というのはユダヤの最高議会の議員であったということです。時の権力者とも近い位置にいたかもしれません。

もう一つ、10節の主イエスの言葉から、ニコデモは「イスラエルの教師」でもあったことが分かります。

ニコデモは学歴があり、社会的な地位があり、人々から尊敬されていた人物でした。そういう人が主イエスを訪ねてきたのです。

2節には見落としてはならない言葉があります。それは「ある夜」という言葉です。

ニコデモは夜こっそり主イエスを訪ねてきたのです。

これは一つにはニコデモが本気であったということを示しています。つまり、みんなの前で何かをして見せるのではなく、自分の問題として本当に必要だと思ったから訪ねてきたのです。

けれども、それは同時に、誰にも見られたくなかったということでもあります。ニコデモには地位もあり、名誉もあり、評判もあります。そういう人であればこそ、人に何と言われるか、どう見られるかを恐れたのでしょう。

もう一つ、象徴的な意味もあると思います。それはニコデモの心が夜のような闇を持っていたということです。心が闇に覆われていたのです。

そのニコデモに対して、主イエスは次のようにおっしゃいました。3節にこうあります。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

ニコデモは基本的に、今自分は正しいことをやっていると思っています。今やっていることの上に、さらに何かを積み重ねて、完全な者になりたいのです。それを捨ててまで主イエスに従う気はありません。根本的に新しくなろうとは思っていないのです。

そのニコデモに対して、主イエスは「新しく生まれ変わらなければならない」と言われました。「あなたの信仰の拠り所としているものは何か。あなたは奇跡を見てここに来たのだろうけれども、本当に大事なのはそこから先だ」ということです。

主イエスはさらに深い真理をお話しになります。5節にこうあります。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」

「できない」と否定的な表現で語られていますが、裏返して言えば、人は誰でも霊と水とによって新しくなることができるということです。

「水」というのは私たちの洗礼を象徴する言葉です。

「霊」というのは、この言葉は8節に引き継がれていきます。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

この「風」と「霊」はギリシア語では「プネウマ」という同じ言葉です。霊というのは風のようなものです。風は目には見えませんが、その音を聞くことができますし、体で感じることもできます。また、風があることによって初めて、風がない時にも、そこに空気があるということが分かります。その存在を確認することができるのです。

さて、この時のニコデモの信仰は、確かにまだ十分なものではありませんでした。しかし、彼はこの福音書の最後にもう一度出てきます。アリマタヤ出身のヨセフが主イエスの遺体を引き取りたいとピラトに願い出た時のことです。

19章の39節から40節にこうあります。「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と乳香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」

最期の瞬間にニコデモは、弟子のペトロやヨハネにはできない貢献をしました。つまり、彼はお金も地位も信用も持っている者として貴重な働きをしたのです。

このようなニコデモの歩みを見ていると、私たちは人の信仰を勝手に判断して、「あの人の信仰は中途半端だ」とか「本物ではない」などと裁いてはならないことを教えられます。人の信仰には、それぞれの時、それぞれの段階があり、その人がこれからどうなっていくか分からないのです。神がその時その時に、ふさわしい形でその人の信仰を深め、用いてくださるのです。どんな人間であっても神が関わられる時に新しくなることができるのです。水と霊とによって新しく生まれ変わることができるのです。

ニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いましたが、それは神からすれば可能なのだということを私たちは心に刻みたいと思います。

最後に、2章の24節の「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」という言葉に帰りましょう。

これは主イエスが、奇跡を見て信じているような中途半端な信仰者を、冷ややかに突き放して見ておられたということではありません。

ヨハネによる福音書を続けて読んでいくと、主イエスがどういうお方であったかということが何度も出てきます。特に思い起こしたいのは主イエスが弟子たちの足を洗われた時のことです。

13章の1節にこういう言葉があります。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛し、この上なく愛し抜かれた。」

「この上なく」とありますが、原文では「最期まで」とも「徹底して」とも訳すことのできる言葉です。主イエスは最期まで、徹底して、弟子たちを愛し抜かれたということです。やがては自分を裏切ることになるであろうということを分かりつつ、それでも愛し抜かれたのです。他の人たちに対しても同様です。信用されてはいなかったけれども愛し抜かれたのです。

そうした主イエスの姿を重ね合わせて見る時に、2章の24節の言葉は、さらに深い意味をもって私たちに迫ってくるのではないでしょうか。

 

ここにいる私たちも、霊の風の音を聞き、その風を体に感じながら、新しくされることを祈り求めていきたいと思います。