「愛と献身のしるし」

                      ヨハネによる福音書12111

                                                   水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の12章の1節から11節です。

主イエスが十字架につけられる日が近づいた時、一人の女が自分の大切にしていた香油を主の体に注ぎました。場所はベタニアです。

状況は大変厳しい時です。11章の57節によると、エルサレムの祭司長たちとファリサイ派の人々が「イエスの居どころが分かれば届け出よ」と命令を出していました。今日で言えば捜査令状が出たということでしょう。

主イエスはまだ捕まっていません。しかし、たちまち人々の知るところとなりました。12章の9節を読みますと、大群衆がやって来ました。騒然とした雰囲気を想像することができます。

けれども、この家の中はとても静かです。ほとんど物音一つしないような所でマルタが運ぶ食器の音だけがしている、そのような光景を思い浮かべることができます。

3節にこうあります。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」

「家は」とあります。部屋だけではないのです。その家全体に香油の香りが満ちたのです。

そして、このような記事を書いている福音書記者ヨハネ、そして、その言葉を聞いていた人々は、「これはこの家だけの話ではない。われわれの教会の姿でもある」と思ったに違いありません。

このヨハネによる福音書が生まれた頃は既に聖餐式が行われていました。その頃は家の教会です。個人の家に集まって礼拝を献げていたのです。聖餐式の杯が回る時、その香りが辺りを満たします。その時、人々はこのマリアの献げたナルドの香油の香りが家に一杯になったことを思い起こしたことでしょう。われわれの家も香りの満ちている場所だと喜んだことでしょう。そして、その香りの中で、マリアが主イエスにしたことを改めて思い起こし、また、新しい感謝と喜びに溢れて、この出来事を語り伝えていったに違いありません。

教会はそのようにしてこの香りに満ちた家の歴史を造りながら、それと重ね合うこの出来事を語り伝えて歩んできました。

11章の39節で、ラザロの墓の前に立った主イエスが「墓の石を取りのけなさい」と言われた時、マルタは慌てて、「四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。

その時にも、私たちはどこかで知っている死者の臭いを嗅ぎ取りましたが、その同じ福音書が、今ここでナルドの香油の香りを語っています。私たちはそこにまことに不思議な神の救いの歴史を見る思いがします。

マリアはなぜ主イエスにナルドの香油を注いだのでしょうか。

ある人がこういう推測をしました。「もしかしたら、この香油は、ラザロがそのまま墓の中にいたら使っていたものだったかもしれない。」

ラザロを墓の中へ葬る時、マリアはこの香油を使って彼の葬りをしていたかもしれません。しかし、それでもなお臭いが漂うことを恐れて、人に頼んで石を取り除けてもらい、その香油をもう一度注ごうと思っていたのかもしれません。

しかし、今はそうする必要がなくなりました。主イエスがラザロを復活させてくださったからです。その香油をマリアは主イエスに注いだのではないかというのです。

死んだ人間のために用意したものを生きた人間に注ぐとは何事だと腹を立てる人もいるかもしれません。しかし、主イエスはそれを喜んで受け入れてくださいました。

どうしてでしょうか。それは主イエスに対するマリアの愛の現れだったからです。

このナルドの香油がどんなに高価なものだったかはユダの言葉が示しています。5節に「三百デナリオン」とあります。一デナリオンは労働者一日の賃金に当たります。ですから、三百デナリオンは一年分の賃金に当たります。その香油をマリアは主イエスの足に塗ったのです。

3節に「自分の髪の毛で」とあります。ユダヤの女性は自分の髪の毛をとても大切にしました。命の現れのように重んじました。マリアはそれで主イエスの足を拭ったのです。

このように考えていくと、ここにはマリアの献身の姿が現れています。主イエスに全てを注ぎ出している姿です。

マリアはここでいったい何をしているのでしょうか。

11章で、主イエスはラザロが死んでいるのを見ると、すぐにマルタとお会いになりました。マルタは初めは主イエスに、「もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と呟きました。しかし、そのあと主イエスに導かれるようにして、「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と信仰を言い表しました。

主イエスがマリアと会ったのはそのあとです。マリアもマルタと同じことを主イエスに言いました。「もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。しかし、そのあとにマルタが語った言葉をマリアは語っていません。口に出してはいないけれども、しかし、マリアは行為をもって自分自身の信仰を言い表しました。それがこの香油注ぎです。

マルタが口にした「メシア」という言葉は「油注がれた者」という意味です。

ユダヤの人々は、預言者や王や祭司など神から特別に力を与えられた人のために祈りをもって油を注ぐという儀式を行いました。やがてユダヤの人々の危機が深まった時に、そこから救い出すために来てくださる救い主というのは、まさに油注がれた者の名にふさわしく、預言者でもあり、王でもあり、祭司でもある方だと人々は信じていました。

しかし、主イエスが来られた時、いったい誰が油を注いだでしょうか。

マリアです。いや、神が既に主イエスを救い主として定め、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言って聖霊の油を注いでくださっていました。それに応える業をマリアはここで行ったのです。

先ほど聖餐式について触れましたが、聖餐というのは私たちの献げものでもあります。例えば、私たちが献げた献金を主の体と血を表すものと同じ場所に置きます。主の聖餐が置かれている場所に私たちの献金を置きます。そのようなところから見るならば、聖餐というのは私たちの献げものだと言うこともできるでしょう。

教会で献げられるものは皆、献身のしるしです。それは私たちもマリアになるということです。自分の存在をそこに置くようにして、「主よ、あなたは神の子です」と言い表すのです。自分の大切なものをそこに注いで、「主よ、あなたは救い主です」と告白するのです。

ヨハネによる福音書がここで求めているのは、主イエスを何と呼ぶか、またそれをどんな献げものをもって言い表すか、ということです。

 

主イエスご自身は何も求めておられません。いや、ただ一つ求めておられるものがあります。それは主イエスに対する愛です。主に仕える心です。私たちもマリアと共に、精一杯、献げたいと思います。