「苦い杯」

                              創世記252734節、マタイによる福音書202028節 

                                                                                                                  水田 雅敏

 

私たちは今、レントの時を過ごしています。今日の聖書の箇所はレントの時にしばしば読まれる所でもあります。

創世記には部族の長たち、族長たちが登場しますが、その初代はアブラハムという人物でした。そのアブラハムの息子がイサクであり、イサクの息子がヤコブに当たります。けれどもヤコブはイサクの長男ではありません。双子の兄弟として生まれてきたエサウが長男であり、ヤコブは次男です。

現代では双子の場合、長男・次男の区別をあまり言わないようになりましたが、かつては遺産相続に関わるということもあって、この順番はなかなかやかましい問題だったようです。時代や社会によっても違うのでしょうが、創世記によれば双子の場合、先に生まれてきた者が長男とされ、あとに生まれてきた者が次男とされたようです。

今日の聖書の直前にエサウとヤコブの誕生の場面が描かれています。そこにはあとから生まれたヤコブが兄エサウのかかとをつかんでいたと記されています。26節です。「かかと」、すなわち「アケブ」をつかんでいたので弟を「ヤコブ」と名付けたと創世記は説明しています。もっとも、別の説明によると、「ヤコブ」とは「引っ張る者」という意味であるといい、また「だます者」という意味もあるといいます。確かに名は体を表すというか、実際、そのあとのヤコブの生き方を見ると、長男である兄エサウを出し抜こうとする彼のやり方は、まさに「引っ張る者」「だます者」という名にふさわしいものだったと言えるかもしれません。

ところで、こうした兄弟の問題がさらに複雑になってしまうのはその両親が絡んでくるからです。28節には父親である「イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである」と書かれています。随分、単純な理由のようにも思えますが、しかし、私たちの現実においてもけっこうそのような単純なところに家族関係や人間関係の問題が横たわっているということがあるのかもしれません。他方、母親である「リベカは弟ヤコブを愛した」とあります。こちらの理由は分かりません。ともかく、父親と母親が二人の息子のそれぞれを偏愛していたということがここにはっきりと記されています。

今日の聖書の箇所ではパンとレンズ豆の煮物と引き換えに弟のヤコブが兄のエサウの長子の権利を奪い取った場面が描かれています。詳しくは分かりませんが、長子の権利とは親の財産を子供たちが引き継ぐ際の長男特有の権利、有利な権利のことだと思われます。そういう大切な権利をたかが一食分の食べ物で譲り渡すエサウもエサウですが、お腹の減った兄の姿につけ込んでそれを要求するヤコブも相当な悪人です。

こうした兄の権利を奪い取ろうとする策略は、さらにこのあとの27章に描かれているように、年老いた父イサクを騙し、長男への祝福の言葉をヤコブが横取りするという事件においてその頂点に達します。その時、父イサクは高齢のために既に目もよく見えなくなっていました。ヤコブは兄エサウのふりをしてそうした父を騙すわけですが、その場面をよく読むと、この策略の黒幕が実は母親のリベカであったことが分かります。母親が息子をそそのかし、細々とした悪知恵を授けているのです。

これに対してヤコブは、もしこの計略が失敗して父に気づかれたら祝福どころか反対に呪いを受けることになるのではないかと恐れました。すると母親はヤコブに向かってこう答えたのです。「わたしの子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりに、行って取って来なさい。」母親のリベカにとってヤコブだけでなくエサウもまた「わたしの子」であるはずなのに、ここにはそうした意識は全く窺い知ることができません。

ヤコブとその母の企みはまんまと成功します。しかし、それはすぐ兄エサウの知るところとなり、怒ったエサウは弟ヤコブを殺そうと決意します。驚いた母のリベカは、ヤコブにその危険を知らせ、遠い地に住む自分の兄ラバンのもとにヤコブを送り出します。

こうして、そのあと親元を離れたヤコブの苦しい人生の旅が始まるのですが、ヤコブにしろ、ヤコブをそそのかした母親のリベカにしろ、自分たちの最初のもくろみがこんな結果になるとは思ってもいなかったに違いありません。その善し悪しは別として、母親として息子のヤコブのためによかれと思ってやったことが、結果的にヤコブを家族のもとから引き離し、様々な苦労と悩みを負わすことになったのです。ヤコブの去ったあとでこの母親がいったい何を思い、何を考えたのか、残念ながら聖書は何も語っていません。

さて、今日のもう一つの聖書の箇所であるマタイによる福音書の中にも一人の母親が出て来ます。それはゼベダイの息子たちの母、すなわち主イエスの弟子であったヤコブとヨハネの母親です。こちらの母親は、リベカと違って、二人の息子のどちらか一方を偏愛するわけではありません。しかし、リベカと共通する点があるのは事実です。すなわちこの母親もまた自分の息子たちのために一生懸命であり、彼らのためには他人を出し抜いてもかまわないという、なりふり構わず、何としても自分の息子の利益になるようにという思いを持った人でした。そうした熱望に燃えて、彼女は主イエスのもとにある願いを持ち込みました。

この母親を前にして主イエスは「何が望みか」と問われました。

彼女は言いました。「王座にお着きになるときに、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」彼女は主イエスがこのあとエルサレムに上って行って王座に着く、すなわちイスラエルの王となると考えていたようです。それで、主イエスが王という権力の座に着く時、その左右の席を自分の息子たちに与えてほしい、すなわち第二と第三の権力者の地位を約束してほしいと願ったのです。

24節には「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」とあります。十二人の弟子たちの中でヤコブとヨハネだけがその母親共々に仲間を出し抜いて権力者の地位を獲得しようとした時、ちょうどエサウがヤコブに対して怒りを燃やしたのと同じように、他の十人の弟子たちもこの二人に怒りを燃やしたのです。しかしまた、それはひるがえって言えば、この十人の弟子たちも、ヤコブとヨハネ、そしてその母親と同じように、自分が権力者の地位に就くことを心のどこかで意識していたことを暴露しているのかもしれません。

いずれにしろ、こうした母親の願いに対して主イエスは次のようにお答えになりました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」

主イエスが飲む「杯」がどういうものであるかということは、この話の直前に記された主の言葉の中にはっきりと示されています。20章の18節から19節にこうあります。「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。」すなわち、十字架の死に至るこの上なく苦い杯こそ、主イエスがこれから飲み干さなければならない杯だったのです。

「それを飲めるか」と問われて、ヤコブとヨハネが「飲めます」と答えた時、ヤコブもヨハネも、そしてその母親も、自分たちが何を言っているのか、何を望んでいるのか、その結果がどこに繋がっていくかということを本当は理解していませんでした。

しかし、彼らが本当は分かっていないであろうということをよくよくご存じの上で、主イエスは彼らに向かってなおもこう告げられました。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」

私たちは、ここに登場したヤコブとヨハネの母親の姿を、同じマタイによる福音書の中で、あとにもう一度見出すことになります。それは27章の56節の場面です。それは主イエスが十字架につけられ、苦しみ、そして息を引き取ったあとの場面であり、次のように記されています。「そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」

その時、ヤコブとヨハネの母親が主イエスの十字架を仰ぎながら何を思い、何を考えたか、そして自分がかつて主に願い求めた出来事についてどう思い巡らしていたのか、ここではそうしたことについて何も記されていません。しかし、その時、主イエスの十字架のもとで彼女がはっきり知ったことは、主が息子たちに向かって約束した杯というものが彼女の期待したような権力者の味わうこの世的な栄光とは全く異なるものであるということでした。事実、使徒言行録の12章の2節によれば、彼女の息子の一人であるヤコブは教会を迫害したヘロデ・アグリッパ王によって剣で殺されたと記録されています。また伝承によれば、もう一人の息子であるヨハネも殉教の死を遂げたと伝えられています。主イエスに従ったヤコブとヨハネの生涯はその母親が願ったようなものとはなりませんでした。むしろ彼女の願いが息子たちを殉教の死へと導いたとさえ言えるかもしれません。

先に見たリベカにしても、ヤコブとヨハネの母にしても、息子のためにと思ってやったことがかえって息子たちの生涯を苦難の中へ追いやることになりました。しかし、創世記のヤコブはそうした苦難を経て初めて神に出会い、神によって生きる者となり、ゼベダイの息子たちもまた、苦難を経て、主イエスの真の弟子としての生涯を送ることになったのです。

私たちの願うことと神の望まれることは必ずしも一致するとは限りません。しかし、神は人間の利己的な欲望をも生かして用いられるのであり、複雑に入り組んだ迷路のような人生をも導いて、紆余曲折の果てに私たちを御自分のもとへ招いてくださるということを、これらの記事は明らかに示しています。 

 

このレントの期節にあって、聖書に証しされた信仰の先人たちの歩みを学びながら、私たちもまた、倦まずたゆまず信仰の道を歩み続ける志を新たにしたいと思います。そして、「私の欲する杯」ではなく主イエスが差し出してくださる「主の杯」を飲む者となることを祈り求めたいと思います。