「交わりの回復」

           創世記11章1~9節 使徒言行録2113

                                  水田 雅敏

 

ペンテコステ、おめでとうございます。聖霊の働きが皆さんの上に豊かにありますように。

ペンテコステ、聖霊降臨の出来事は「言葉」の問題と深く関わっています。使徒言行録の2章の4節によると、聖霊に満たされた弟子たちは「〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。そして、8節ですが、それを聞いた人々は皆、あっけにとられて、「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と驚き怪しんだといいます。

この現象を「多言語奇跡」と呼ぶ人もあります。多言語の「多」は多い少ないの「多」です。9節から10節には数々の土地の名が挙げられており、いったい何種類の言葉が飛び交ったのか分かりませんが、おそらく騒然とした情景が現れ出たことでしょう。

ところで、騒然ということであれば、創世記の11章に伝えられているバベルの町の中でもそれ以上の喧騒に満ちたやかましい状況が生まれていたに違いありません。11章の記述によれば、当時、まだ人々の使う言葉は一つだったといいます。ある時、人間たちは神に対抗しようという不遜な思いを抱き、神のおられる天に向かって高い塔を築き始めました。

そのような巨大な建築物を造り出すためには、それに必要な経済力や技術力、また、多くの人間の力を結集できるだけの組織や制度の存在が前提となります。こうした人間的な能力を結集して、人々は人間以上のもの、神の領域にまで達しようと企てたというのがバベルの記事です。

しばしば指摘されることですが、このような人間的な能力の乱用と無制限の高慢さは、むしろ今日においてこそ、より切実な問題ではないでしょうか。バベルの記事は過去のいかなる時代にもまして現代の私たちに向かって警告を発していると言えるかもしれません。例えば、巨大なエネルギーを生み出す原子力技術、瞬時にして世界の隅々を網羅するインターネット、同一の生命のクローン・複製さえ可能にする生命科学といった現代の最新技術があります。しかし、これらのものは全て、両刃の剣と言うべきものであり、今日の私たちに大きな問題を投げかけています。技術の発達は必ずしもそれ自体が自動的に人間を幸福にするとは限りません。

問題は、そもそもそのような技術や能力が人間と世界にどんな意味を持ち、最後に何をもたらすのかを見極めることにあります。しかし、多くの場合、私たちがそういうことを考える間もなく、技術は先へ先へと進んで行き、私たちはその現実をあたふたとあとから追っかけていくというのが実態です。そして、今もなお人間の際限のない欲求や好奇心を無批判に肯定し、それを推進力として「高い塔」を建てる営みがあちらこちらで続けられているのです。

おそらく、創世記の物語と私たちが生きている現代の状況との間に横たわっている最も大きな違いとは、少なくともバベルの町の人々は神の存在を意識しており、神を一つの目的としていたのに対して、今日ではもはや人々は神という概念さえ知らず、すなわち自分たちが達すべき目的さえ知らないまま、ただひたすら「高い塔」を建てるという行為自体に狂奔しているということでしょう。それはバベルの記事以上に私たちが混沌とした恐ろしい状況のもとにあることを示しているのです。

創世記の11章の5節以下には、人間の思い上がりに憤った神が、この塔の建造を阻止するために、それまで一つだった人間の言葉を混乱させたと書かれています。この地上に様々な言語が生まれることになったのです。その結果、人間たちの間ではお互いの言葉が理解できなくなり、コミュニケーションが取れなくなって、遂にこの企ては挫折したと書かれています。

今、見てきた記事の展開からすれば、たくさんの言語が存在するのは人間の高慢の結果であり、神の罰であって、聖書的にはマイナスの事柄であるかのようにも読めます。しかし、ここで本当に問題なのは言語の多様性ということではなく、神にまで達しようとする人間の高慢さがかえって人間同士のコミュニケーションを破壊し、互いに理解し合えない結果を生み出したという点にあります。

事実、少し視点を換えてみれば、私たちはたとえ同じ言葉を使っていても、お互いに理解し合えなかったり、交わりが形づくれないということがあります。正確に言えば、多くの言語の存在が問題なのではなく、神と人間の交わりを破壊し、同時に人間と人間の交わりも破壊する人間の高慢さこそ、バベルの記事が語り伝えようとする問題の本質なのです。

創世記を読むと、既に3章のアダムとエバの物語や4章のカインとアベルの物語において、神との交わりの破綻が同時に人間同士の交わりの破綻に繋がっていく有り様が示されています。聖書によれば、これら二種類の交わりは切り離すことのできない内実を持っています。神を愛することと隣人を愛することが密接な関係を持っていて分けることができない最も大切な戒めであるように、このいずれかの交わりを破る者は、同時にもう一つの交わりを破ることにならざるを得ないのです。

さて、バベルの物語がこのように二つの交わりの破綻を伝える物語であったとすれば、ペンテコステ、聖霊降臨とは、それとは逆に、神と人間のコミュニケーションが回復され、同時に人間と人間のコミュニケーションが回復されていくことを示す出来事だと言えるでしょう。神はこのペンテコステの日に、聖霊を通し、弟子たちの唇を通して、再び御自分の心を人々に語り伝え、人間と神との交わりを再建し、また、神のもとにおける人間と人間との交わりを再建する業に着手されたのです。

このような働きは既に主イエスによって開始されていたものですが、このペンテコステの日以来、弟子たちもまた、そのような主の働きに参与し、それを引き継ぐことになったのです。主イエスを通して働いていたのと同じ力が、聖霊を通して弟子たちの上にも働くことになったのです。聖霊を通して主イエスと弟子たちは繋がっています。そして、主イエスと繋がっている弟子たちは主と同じ働きを担うのです。

このようにして高慢のゆえに失われた二つの交わりが神御自身の恵みによってもう一度、再建されていきます。

全ての時代の全てのキリスト者は、自分自身もこの恵みに与りつつ、この再建の業に参与します。私たちが建てようとしているものはバベルの塔ではありません。人間の技術や能力に依存して神に成り代わること、あるいは無目的、無制限に自分たちの力を振り回すことが私たちの目指すものではありません。私たちが目指すことは、自分たちのために高さや大きさや強さに達することではなく、主イエスご自身の生涯がそうであったように、むしろ低さや小ささや弱さに注目し、皆が共に生き、皆が互いに支え合うような神の民の集いを造り上げることです。

ここで特に注目したいのは、神と人との交わりの回復、人と人との交わりの回復を実現するために、神はいろいろな言語、それぞれの人の使う日常的な言葉を用いようとされたという事実です。逆に言えば、この時、神は、かつてバベルで起こった言語の混乱、その結果として生じた交わりの破綻を修復し再建するために、それらの言葉をもう一度、一つにまとめあげ、統一した言語、統一した手段を用いることによって、統一された交わりを達成しようとはされなかったという点に注目したいと思うのです。

交わりの回復とは単なる過去の再現に留まるものではありません。福音が宣べ伝える言葉は様々であり、その手段もまた様々です。そして、それは偶然そうなったということではなく、神御自身が様々な言葉を用いることを良しとされたということの結果なのです。神は、唯一の統一的な手段を通してではなく、多様な形によって福音がそれぞれの人のもとに届くことをお望みになったのです。

このことは、私たちが福音宣教ということ、交わりということ、そして、教会を造り上げるということを考える上でとても大切なことだと思います。主イエスの姿、また、ペンテコステやその後の弟子たちの姿を見ると、同じ一人の神の恵みが様々な形で現れ、同じ福音のメッセージが様々な形で伝えられていきました。そして、そうした福音宣教は、単に言葉を通してだけでなく、癒しを必要としている人には癒しを、食べ物を必要とする人には食べ物を、交わりを必要とする人には交わりをという形で、具体的に多様な形で進められていきました。聖霊の力はこうした様々な場面においてその姿を現すのです。

 

現代に生きる私たちもまた、私たちの教会形成や宣教の働きにおいて、こうした聖霊の働きを祈り求めながら歩んでいきたいと思います。