「祝福の言葉」

          コリントの信徒への手紙二 1313節 

                   水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の13章の13節です。

コリントの信徒への第二の手紙もいよいよ今日で最後です。

13節でパウロはこう言っています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」

これは礼拝の最後になされる祝福の言葉です。この言葉が素晴らしいので、そのまま礼拝に用いられるようになりました。

この祝福には明らかな特徴があります。それは「主イエス・キリストの恵み」と「神の愛」と「聖霊の交わり」という三つのことによって祝福されるということです。ただ神の祝福を願うのではなくて、この三つの形になっていることがこの祝福の特徴です。順番に見ていきたいと思います。

まず、「主イエス・キリストの恵み」です。

キリスト教の信仰は啓示によるとよく言われます。啓示というのは神が御自分を自らお示しになるということです。人間は神を知ろうとしていろいろな努力をします。例えば、人間の知識で神を知ろうとします。自然や人生について知ったことから、神はこういう方なのではないだろうかと考えます。しかし、そういうことは皆、それによって、神はありそうだと思ったり、神とはこうなのではないかと想像したりするだけで、確かなことは何も分かりません。神は人間の手では届かないのです。神御自身が御自分を示してくださる以外に人間が神を知る道はないのです。

それなら、神はどのようにして御自分を人間にお示しになったのでしょうか。それは御自分の独り子イエス・キリストをこの地上に遣わし、人間を救うことによってです。それによって、神がおられること、神がどういう方であられるかということを示してくださいました。

信仰というのは、悟りを開くというように、神について考え、救いについて思いを巡らすことではなく、イエス・キリストによって救われるという救いの事実に基づいてイエス・キリストの恵みを知ることです。イエス・キリストの救いこそは神を知るただ一つの道です。それでパウロは「主イエス・キリストの恵み」と言っているのです。

次に、「神の愛」です。

神の愛は何となく誰にでも分かっているように思われているものです。神が愛であることは常識になっているかもしれません。しかし、神の愛を信じることはそんなに簡単なことではありません。例えば、私たちはいつどういう時に神の愛を思うでしょうか。神がこの自分を愛しているときにだけ神の愛を思うのではないでしょうか。いわゆる幸福な生活をし、健康で、何の不足もないときにだけ神の愛を思うのではないでしょうか。自分が望んでいるような幸福は与えられないで、他の人がそういう幸いを得ているときにでも、私たちは神の愛を思うことができるでしょうか。そのように、私たちが考える神の愛というのは、神の自分に対する愛であって、それ以外には神の愛を知る方法がないというのが実際のところなのではないでしょうか。

聖書の中にも「神は愛だ」とはっきり書いてある所はそう多くはありません。神の愛についてはっきり書かれている所の一つはヨハネの第一の手紙の4章の8節です。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」

おそらく、これだけではよく分からないと思います。「愛することのない者は神を知りません」と言われれば、私たちのような、少なくともこの私のような愛の薄い者にとっては、神が愛であることを知ることは絶望に近いのではないかと思います。

しかし、これには続きがあります。そのあとの10節に、それならその愛とは何かということが書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

ヨハネの第一の手紙はわたしたちが神を愛したのではないと言います。人間に愛がないこと知っているのです。だから、神のほうがわたしたちを愛してくださったと言うのです。

では、神はどういう方法によって私たちを愛してくださったのでしょうか。それは御子イエス・キリストを遣わして、人間の罪を償ういけにえとするという方法によってです。それによって罪から救ってくださったのです。

神の愛は御子による救いという道において示されました。これ以外の方法では神の愛を知ることはできません。この道において神の愛を知るとき、いつどんな時にも神の愛を信じることができるのです。

最後は、「聖霊の交わり」です。

「イエス・キリストの恵み」と「神の愛」はよく似たもののように思えます。それに対して「聖霊の交わり」は全く違ったことのように思えます。しかし、そうではありません。イエス・キリストは恵みを現してくださいました。神は愛を示してくださいました。けれども、人間はそのままの状態ではこれを信じ、理解することができません。聖霊との交わりがあったときにはじめて、イエス・キリストが救い主であることを信じ、そのゆえに、その恵みをいただくことができるのです。御子を遣わされたことが神の愛にほかならないということが分かるのです。

使徒言行録の16章には興味深い記事があります。パウロが初めてヨーロッパに渡ったときのことです。その最初の地のフィリピで彼は安息日に祈りの場所に行き、集まっていた婦人たちに話をしました。すると、リディアという婦人も話を聞いていましたが、「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」のです。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けました。

この「主が彼女の心を開かれた」という言葉が印象的です。私たち人間の心は変わりやすく曖昧です。いや、むしろ大変頑なで、なかなかイエス・キリストの恵みを受け入れず、神の愛を分かろうとはしません。しかし、不思議なことがあるのです。聖霊が働いて、頑なな人間の心を開いてくださるのです。

 

今日の聖書のパウロの祝福にはキリスト教の信仰の要になることが簡潔な表現によって明らかにされています。私たちは祝福を受けるたびにその尊さに思いを寄せたいと思います。その意味の広さ、深さを味わいたいと思います。