「備えられた時」

                     ヨハネによる福音書7113

                                                 水田 雅敏 

 

ヨハネによる福音書はこの7章から新しい部分に入ります。6章までは主イエスの活動の舞台はガリラヤ地方でした。ガリラヤ地方というのはヨルダン川の上流にあるガリラヤ湖周辺です。水をぶどう酒に変える奇跡をなさったカナ、王の役人の息子を癒されたカファルナウム、主イエスの故郷の町ナザレなどは皆、ガリラヤ地方の町々です。主イエスにとってはこのガリラヤ地方がホームグラウンドでした。そこは心の安らぐ所でもあったのでしょう。奇跡も多くなさりました。しかし、この7章から活動の舞台は徐々にエルサレムへと移っていきます。

1節にこうあります。「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」

この「ユダヤ人」というのは主イエスを敵対視しているユダヤの宗教的指導者のことです。「ファリサイ派の人々や律法学者」というのに近い意味ですが、ヨハネによる福音書はしばしば「ユダヤ人」という言い方をします。5章で主イエスはエルサレムのベトザタの池のほとりで、病に苦しんでいる人を癒されましたが、その後、エルサレムでは目を付けられるようになったのです。

7章の2節から4節にこうあります。「ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。『ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。』」

「あなたのやっていることは大事なことなんだろう。だったらこそこそやっていないで、もっと大勢の人々のいるところで堂々とやったらどうか。エルサレムへ行きなさい。もうすぐ祭りだから絶好のチャンスじゃないか。」主イエスの兄弟たちはそのように言いました。

しかし、ヨハネによる福音書は5節に「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」という言葉を付け加えています。

これは主イエスを「ただ者ではないぞ」くらいに理解しながら、深いところでは分かっていなかった。神の子だとは信じていなかったということです。幼い頃から主イエスと一緒に生活しながらも、いや、それだからこそと言ったほうがいいかもしれません。あまりにも近くにいたために、肉の目、この世のレベルの目でしか主イエスを見ていなかったのです。

次元が違うかもしれませんが、クリスチャンホームに育った人の中にこれと似たようなことが起こることがあります。キリスト教のことを小さい頃からよく聞かされています。教会学校へも連れて行かれて、イエスは身近な存在です。聖書もそれなりに読んでいます。どんな話が書いてあるかもけっこう知っています。でも、本当の意味での救い主としてのイエスには出会っていません。すれ違いなのです。本人はよく知っているつもりでいます。それこそ兄弟のように、どこで何をされたかまで知っています。それでいて肝心なところが分かっていないのです。

洗礼を受けたキリスト者であってもこれとよく似たようなことが起こることがあります。自分は聖書のこともキリスト教のこともよく知っているという自負心が、かえって、今も生きて働いておられる主イエスを見る目を鈍らせるのです。新たな出会いを妨げるのです。もう知っていると思っているところでは新しいものは入ってこないのです。

6節で主イエスはこう言われました。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」

兄弟たちは、「今こそチャンスだ。その時だ」と思って、主イエスに「エルサレムへ行きなさい」と言ったわけですが、それはこの世のレベルでの話です。いわゆるマーケティングのような発想で「今が一番有効ですよ」と言ったわけです。しかし、主イエスはそうしたレベルの「時」と全く別の基準を持っておられました。

ここで「わたしの時はまだ来ていない」の「時」という言葉は特別なギリシア語が使われています。「カイロス」という言葉です。何日、何時、何分というような「時」は「クロノス」という言葉が使われますが、この「カイロス」という言葉はあまり使われない言葉です。辞書では「ちょうどよい時」「好機」「機会」などと書いてありました。

「あなたがたのカイロスはいつでもあるけれども、わたしのカイロスはまだだ。今ではない」。私たちが「今こそチャンス。今がその時だ」と思う時と、主イエスがそう思われる時は、ちょっと違うということです。

8節で主イエスはこう言っておられます。「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」

しかし、実際には、10節に記されているように、そのあと主イエスはこっそりエルサレムに上って行かれます。

これには「おやおや」と思う人もあるではないかと思います。「主イエスは『自分は行かない』と言っておきながら、こっそりあとで行くというのは変だなあ」とか、「随分、移り気だなあ」と思われる人もあるかもしれません。

それらの批判が起こることを承知の上で、矛盾に見えるようなことをヨハネによる福音書がそのまま記しているのはどうしてでしょうか。

これは矛盾というよりも、主イエスはもう一つ深いところで私たちの時間とは違う「時」の中を生きておられたということでしょう。つまり、主イエスは兄弟たちが勧めるような意味では、「自分をはっきり世に示す」ためにはエルサレムへ行かれないのです。主イエスは確かにエルサレムへ上られます。しかし、それは「人目を避け、隠れるようにして」です。まだ本来のエルサレム上りではないのです。本来のエルサレム上りはやがて来ます。それは、この仮庵祭の時ではなく、過越祭の時です。その時に初めて「カイロス」としてのエルサレム上りが起こるのです。

12節以下に群衆が出てきます。この群衆はなかなか恐ろしい、そして、不可解な存在です。よい方向にも傾きますし、悪い方向にも傾きます。やがて主イエスがエルサレムに公然と上られる時に、群衆はなつめやしの枝を持って主イエスを出迎え、こう叫びました。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」。しかし、その数日後には主イエスを「十字架につけろ」と叫ぶようになります。群衆は匿名の集団です。主体性がないのです。

私たちも群衆の中に紛れ込んでいる限りは、何か安全地帯にいるように思っています。しかし、神の前に立つ時には群衆のまま、匿名のままではいられません。主イエスの存在は私たちに「あなたはどうなのか」という問いを否応なく突きつけてくるからです。

そして、それは私たちを二つに分けることになります。12節にこうあります。「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。」

そういうふうに、判断を迫ってくるのです。

私たちはそうした中で、群衆の中に留まっているのではなく、主体性を持つ人間として一つの答えを出すように求められているのです。

最後に改めて6節の言葉に注目したいと思います。この言葉には積極的なメッセージが込められています。「あなたがたのカイロスは、いつも備えられている」。すなわち、「あなたがたにとっての決定的な時、カイロスはいつでも目の前に迫っている。神のほうにはいつもその用意ができている。あなたがたはそれに気づかないだけだ。それに気づきなさい」と主イエスは言われるのです。

 

その大切な時に気づくためには、私たちのほうでもいつも備えていることが大切です。神はどうお考えになるだろうか。主イエスならどうされるだろうか。そういう視点を常に持つことです。それによってこそ、本当に大切な時を見失わずに生きることができるのです。