「主よ、信じます」

                      ヨハネによる福音書93541

                                                     水田 雅敏 

 

ヨハネによる福音書の9章には一連の出来事が記されています。

生まれつき目の見えない人がいました。そこで、「なぜ、この人は目が見えないのか」という問答が始まり、主イエスがこの人の目を癒してくださいました。ところが、そのために、この人が裁きにかけられてしまいます。この人を癒した主イエスをファリサイ派の人々が快く思わなかったからです。まるで主イエスの身代わりのように、この人が裁かれてしまうのです。

ここに語られている出来事が実際には何時間くらいの間で起こったのかは、よく分かりません。おそらく少なくとも丸一日はかかったのではないでしょうか。そうだとすると、この人にとってこの一日は、随分長かったと思います。特に裁かれるところに追い込まれてからの時間は、とても長かったと思います。

しかし、この人は屈しませんでした。「自分を癒してくださったイエスという方は、間違いなく神のところから来られた方であって、決してあなたがたの言うような、いかがわしい者ではない」ということを言い貫きました。

結局、その裁きの結果、この人は追放されました。「会堂から出て行け」と追い払われました。それはこの人にとって辛いことだったに違いありません。しかし、他方から見れば、裁きの座から解放されてホッとする思いもあったかもしれません。

35節にこうあります。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた。」

「出会う」という言葉がありますが、もともとの言葉は「見つけ出す」という言葉です。

「神の前で正直に答えよ」などとファリサイ派の人々に責められて、この人は心身共に疲れ果てていました。しかし、それでも何とか耐えることができました。なぜ耐えることができたかというと、どんなに問い詰められても、どんなに裁かれても、最後まで失いたくなかったのは、「わたしを癒してくださった方はこの方である」という真実でした。それだけは何があっても譲るわけにはいきませんでした。

そのように、ひとたび造られた主イエスとの交わりを大切にしていた人が、その主ご自身に「見つけ出された」のです。

そして、主イエスは「あなたは人の子を信じるか」と声をかけてくださいました。

この言葉は問いであることに間違いありませんが、それと同時に「あなたは人の子を信じたらどうか。今、あなたにはそれができる」と導いてくださる主イエスの招きの言葉です。「人の子」というのは、ここでは神の救いをもたらしてくださっている存在、神の救いそのものである存在という意味です。「あなたは神の救いそのものである存在を信じたいと思うか。」

この人の答えはもちろんイエスです。ただここではこういう問いになります。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

「主よ」。この言葉に、既にこの人の主イエスに対する信頼がよく表れています

そこで主イエスはこう言われます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

「このわたしを見るがよい。そして、信じるがよい。わたしが救いそのものだ」と言われるのです。

すると、この人は「主よ、信じます」と言って、ひざまずきました。

多くの人はここに、ヨハネによる福音書が書かれた頃の教会の洗礼の姿を見ます。教会で洗礼を受けてキリスト者になる時に、これとちょうど同じような問いかけが教会からなされ、それを受け入れた人が洗礼を受けたのです。

主イエスはご自分を指さして、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのがその人だ」と言われました。

ここで語られている信仰、それは明らかに「見る」ことです。主イエスを見ることです。

けれども、主イエスを見ることにおいては、この人も、周りの人々も、皆同じです。40節以下に記されているように、そこにはファリサイ派の人々もいたのです。彼らもイエスを見ているのです。けれども、彼らはイエスを信じてはいません。イエスが人の子であるとは信じていないのです。

信仰とは、そのように、主イエスを「見ながら、信じる」ということです。主イエスを見ながら、しかも信じるのです。

私たちは今、礼拝を献げています。私たちは主の日ごとに礼拝に連なります。礼拝堂に入り、十字架を見上げます。けれども、そこにあるのは、ただの二本の材木です。どこにでもある木材です。誰が見ても材木だと分かるものです。

しかし、この人と同じ信仰を持っている人は、そこに人の子を見ます。そこに人の子イエスが見えていると信じます。

ちょうど、この人の前に主イエスがお立ちになって、「あなたは人の子を信じるか」と誘われるように、その時、私たちも主イエスに問われているのです。「十字架につけられたわたしが、今ここにいて、あなたがたに問う。わたしはここにいる。これを信じるか。」

私たちは「主よ、信じます」と言って、主イエスの前にひざまずきます。

ここで「ひざまずく」と訳されている言葉は、しばしば「礼拝する」と訳される言葉です。肉体においてひざまずくということは少ないかもしれませんが、私たちの心がひざまずくということがなかったら、礼拝は成り立ちません。ここで主イエスが求めておられる信仰は成り立ちません。信じるということは、ひざまずくということです。低くなるということです。低くなって、「ここに救いがある」とその信仰を言い表すことです。

主イエスがその信仰へと導いてくださるのです。信仰は主イエスご自身が導いてくださらないと成り立ちません。私たちが「主よ、信じます」と言ってひざまずく時、主の手に導かれて、主の手に支えられるようにして、ひざまずくのです。

主イエスはさらに、こういうことを言われました。そのひざまずいている人の姿をご覧になりながらです。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

ここで一つの事件が起こります。それは「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」という事件です。不思議な言葉です。

その不思議さに気づいた人々がいました。ファリサイ派の人々です。彼らは主イエスの言葉を聞いて、「我々も見えないということか」と言いました。

そこで主イエスは彼らに、こう言われます。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

ひと言で言えば、「あなたがたは見るべきものを見ることができていない」と言われるのです。

では、いったい何を見ることができたらよいのでしょうか。

主イエスです。主イエスに起こっている神の救いです。ファリサイ派の人々にはそれが見えないのです。だから、この人が救われた時に、それを一緒に喜ぶことができなかったのです。

彼らには罪が残ると主イエスは言われます。それに対して、この人には罪は残りません。主イエスがはっきりと見えているからです。一方は見えない罪の中に取り残され、他方は見える世界の中に引き上げられるのです。

ヨハネによる福音書は、自分がコツコツ書いていることを凝縮させるように、3章の16節にこういう言葉を書いています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

主イエスを信じる者は、この言葉を自分に与えられた恵みの言葉として受け取ることができます。その幸いの中に私たちも今、置かれているのです。