「もっと偉大なことをあなたは見る」

                      ヨハネによる福音書14351

                                                  水田 雅敏 

 

前回、私たちはヨハネによる福音書の1章の35節から42節の「最初の弟子たち」と題された箇所を読みました。そこでは洗礼者ヨハネの二人の弟子、アンデレともう一人の弟子が主イエスに従ったこと、そしてアンデレに紹介された兄弟のペトロも主に召されたことが記されていました。

今日私たちに与えられた1章の43節から51節は主イエスが弟子を召された話の続きです。さらに新たな二人を召されるのです。

43節から44節にこうあります。「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。」

これによれば、主イエスはいきなり道すがらフィリポに向かって「わたしに従いなさい」と言われ、フィリポは従っていきます。どうしてそんなにすぐに決断できたかは何も書いていないので分かりません。アンデレとペトロと同じ出身であったということですから、この二人がフィリポを誘ったのかもしれませんし、あるいはこの二人を見て、フィリポのほうから「よし、わたしも」と決心をしたのかもしれません。いずれにしてもアンデレとペトロが主イエスに従っていたことが前提になっているのでしょう。主に従う姿そのものが他の人にも影響を与えるのです。

ところで、私たちがある宗教について判断する時に「実を見て木を知る」ということがあります。その宗教がどんな実りをもたらしているか、どんな人物を生み出しているかということが、その宗教が人を生かす宗教であるか、生かさない宗教であるかを見極める一つの基準になるのです。

キリスト教を含む伝統的な宗教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教は歴史に耐えてきた宗教であり、尊敬すべき人物を生み出し育ててきました。それらに比べると、いわゆる御利益を強調する新興宗教では、なかなかそのような人物は生まれにくいのではないかと思います。というのは、新興宗教というのはまず願いありきだからです。この世のマーケティングと同じです。今何が求められているか、人は何を欲しているかというニーズがまず先にあって、それではそれに応えるものを提供しようというので、新しい宗教が生まれてきます。そしてそのニーズにピッタリ合ったような宗教が流行るのです。ですからこちらの要求に合わないとなるとすぐに捨てられます。

新興宗教が分かりやすく、すぐにこちらのニーズに応えてくれるように見えるのに対して、伝統的な宗教というのは何か取っつきにくいところがあるかもしれません。マーケティングの原理で動いていないからです。言い換えるならば偶像ではないからです。

伝統的な宗教はまず最初に神や真理があります。キリスト教の場合でいうと主イエスがおられます。そしてそのお方と共に歩むかどうか、そのお方を自分の生活の中心に置くかどうかが問われます。ですからこちらの自己変革が問われてきます。またある種の犠牲を伴ってきます。主イエスが「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われた通りです。だからこそ、それなりの人物、尊敬すべき人物が生まれてくるのだろうと思います。

フィリポの場合にはアンデレとペトロをおそらく知っていて、この二人の姿を見て、「彼らが従っているのなら」という思いで主イエスに従ったのだろうと思います。

興味深いことにフィリポはそのあとすぐにナタナエルに声をかけています。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」「律法」と「預言者」というのは当時の聖書、旧約聖書を指しています。「聖書に預言され、皆が待ち望んでいたメシアが今われわれの目の前に現れたのだ」とフィリポは興奮して言ったのでしょう。

しかし、「それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言った途端に、ナタナエルは白けたように「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いました。おそらく当時ナザレはパッとしない田舎町だったのでしょう。そのような所からメシアが現れるわけがないではないかと思ったのです。

そのようなナタナエルに対してフィリポはしつこく言います。「来て、見なさい」。「とにかく、来て、見なさい」というのです。

そこでナタナエルはフィリポに連れられて主イエスのほうへ向かいます。するとナタナエルがまだ何も言わない先に、主イエスは「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われました。ナタナエルは、びっくりして、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と問い返します。

主イエスは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」とお答えになりました。いちじくの木の下というのは当時、ラビが律法を教え、弟子たちがそれを学ぶ場所として、よく選ばれたようです。ナタナエルもいちじくの木の下で律法を学んでいたのでしょう。

主イエスのその言葉を聞いてナタナエルは「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言いました。これは、ナタナエルの信仰の告白と言ってもいいでしょう。

そういう告白をしたナタナエルに対して、主イエスは「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と言われました。主イエスはナタナエルの信仰の告白を認めて受け入れながら、「しかし、それだけではない。これからもっとすごいことが起こる。あなたはそれを見ることになるだろう」と言われたのです。

これは私たち信仰生活を送っている者の実感ではないでしょうか。私たちは洗礼を受ける時は、実はそれほど深く考えて受けるわけではないでしょう。あるいは主イエスについて、キリスト教について、それほど深く理解しているわけではないでしょう。

この時のナタナエルの信仰の告白にしても、言葉は立派ですが、その中身、その信仰はどれほどのものであったでしょうか。彼は主イエスが自分のことを言い当てたので、それだけで信じたのかもしれません。あるいは何か自分に都合のいいように、ある意味で御利益宗教を信じるような感じで、そう告白したのかもしれません。

そのように私たちもそれほど深く考えずにキリスト者になる決心をすることが多いのではないでしょうか。あるいは何か別のことを期待して洗礼を受けることもあるかもしれません。それはそれでいいと思います。この時も主イエスはナタナエルのことを受け入れておられます。評価しておられます。

しかし、主イエスは「それだけではない。もっと偉大なことをあなたは見る」と言われました。信仰をもって生きることは驚きの連続です。信仰生活とはこのようなものと分かったように思っていたら、必ずそれを超える出来事に遭遇します。そこで私たちは信仰の奥深さ、豊かさを改めて思い知らされるのです。

キリスト教というのは新興宗教に比べると難しいように見えるかもしれません。すぐには何がしかの御利益はないように見えるかもしれません。しかし、そこで自分が造り変えられることによって、もっと大きなものを神からいただいたということが、あとになって分かるのです。知れば知るほど味が出てくるのです。噛めば噛むほど味が出てくるのです。昆布やスルメのようなものです。昆布やスルメはやがて味がなくなりますが、キリスト教というのはそうではありません。触れれば触れるほど、つきあえばつきあうほど、新たなことを発見します。さらに偉大なことを見せていただくのです。

ここで、あるキリスト者をご紹介します。先週の個人の学びの本の中に川口武久さんという方が紹介されていました。川口さんは、筋萎縮性側索硬化症といって、全身の筋肉の力が失われ、物を持つことも話をすることもできなくなるという難病になり、死を願ったこともありました。しかし、そのような絶望の中でキリストと出会い、神の愛を知ったのです。そして、これまで多くの人に支えられてきたので、これからは世の中の心棒、心の棒になりたいと語っています。

川口さんは次のような歌を詠んでいます。「苦難をも こやしに生きよとのたまわる 我らの神に 従い行きぬ」。こやしによって植物が生長していくように、苦難というものを人生の不可欠なこやしとして、人は成長し、たくましくなっていくことができると言うのです。

私たちの周り、そして私たちの歴史はそのような証しに満ち溢れています。豊かな実のり、尊敬する先達をたくさん生み出してきました。

 

そのような証しを見ながら、私たち自身もフィリポのように、またナタナエルのように、主イエスを信じ、主に従う決断をしていきたいと思います。そうした中でこそ、主は「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」という約束を実現してくださるのです。