「御言葉を行う人になる」

           ヤコブの手紙12225節 

                    水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヤコブの手紙の1章の22節から25節です。

前回私たちは「聞くこと」の大切さを教えられました。信仰は何よりも神の言葉を聞くことから始まり、御言葉を聞くことを抜きにしては何事も始まりません。私たちが聞こうとして耳を傾けている御言葉を通して、またそれと共に働く聖霊によって、信仰が私たちの中に生まれ、育ち、そして私たちを新しい存在に変えていきます。私たちはまず神の言葉を聞かなければなりません。

それに続いてヤコブは「聞くだけで終わってはならない」ということを語っています。22節にこうあります。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」神の言葉は、それに耳を傾け熱心に聞き入るときに、私たちを内側から突き動かし、立ち上がらせ、新しい生き方を生み出してきます。そのことが起こるまで御言葉に聞き続ける、そして御言葉の命じることを行う者として歩み始めていく、ヤコブが私たちに求めているのはそのことです。

これはイエス・キリストの教えに一致したものです。例えばマタイによる福音書の7章の21節でイエス・キリストは次のようにおっしゃっています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」これも聞くことから行なうことへという変化を促している言葉です。

ヤコブは神の言葉を聞くだけで行わない者は鏡に映った自分の顔や姿を見て、それをすぐに忘れてしまうような人に似ていると言っています。23節から24節にこうあります。「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」古代の鏡は、今日のようなはっきりと姿を映し出すガラスによって作られたものではなくて、金属を磨き上げて作られたものでした。その鏡に自分の顔や姿を映してみて鏡を見ている間は自分の顔や姿を認めることができるけれども、いったんその鏡の前から離れてしまうと自分がどんなふうだったかを忘れてしまう、そういう人のことが語られています。顔や姿のことに関してはそのように簡単に忘れてしまっても、別に生死に直接関わることはないでしょう。しかし、神の言葉に対してはそれでは済まされないのだとヤコブはいうのです。

神の言葉は一人一人の存在や生き方に関わる事柄を私たちの前に差し出しているものです。御言葉には神の人格が込められています。神の救いの意志と計画が秘められています。その御言葉を聞いても忘れてしまう、聞いても行わないということは御言葉の主であられる神を無視することと同じことになります。それは御言葉によって差し出されている様々な恵みと賜物を拒むことであり、ひいては神と無関係に生きることにさえなります。それゆえに御言葉を聞いても忘れてしまう、御言葉を聞いても行わないことは、キリスト者にとって致命的なことなのだということを、私たちはここから聞き取らなければなりません。

私たちは神の言葉の豊かさや、その深さや大きさ、希望に溢れた内容に感激し、感動することは当然あります。それは大切なことです。御言葉を聞くことによって喜びが生まれてくる、それは大切なことです。しかし、それを一時的な感激や感動に終わらせないことがもっと大切です。私たちは神の言葉に熱心に聞き入っている自分の姿に満足することで終わってはなりません。御言葉は生きて働くものです。それゆえ、聞く者においては何らかの動きが生まれてくるはずです。そういう御言葉の聞き方をヤコブは指し示しているのです。

そのように、神の言葉を聞いても行わない者は自分を欺いているとヤコブは22節で述べています。御言葉を通して自分のあるべき新しい在り方が示されているにもかかわらず、生きるべき新しい方向がそこに示されていることを知りながら自分をそちらの方へ差し向けないことは真実に自分を生かしていないことなのだというのです。それは聞いているものが神の言葉である以上、聞くことは行うことと不可分の関係にある、分けることのできない関係にあるということです。聞いて行わないということは、本当は聞いていないことと同じことなのです。人間の生意気な知恵を沈黙させ、神よりも賢いという思い上がりを打ち砕いて、神の言葉の促す方向へと従順に自分を差し向けていく、それが真に御言葉を聞くことなのです。

ヤコブはこの神の言葉を「自由をもたらす完全な律法」という言葉で言い表しています。25節にこうあります。「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」「律法」という言葉が用いられていますが、これは旧約聖書の律法のことではありません。これはイエス・キリストにおける新しい戒め、新しい掟という意味です。ですからこれは「福音」という言葉に言い換えてもよいものです。福音には神の愛が込められ、救いと赦しが示され、新しい命の希望と約束が息づいています。

それを「一心に見つめなさい」とヤコブは言います。神の言葉において神が語りかけ、私たちに差し出してくださっているものを手に取ることができるように、それを描き出すことができるほどにそれに集中しなさいというのです。熱心に聞くことによって自分のなすべきことがそこに手に取るように見えてくる、それほどに御言葉に集中しなさいというのです。そのようにすることができるときに、この世の価値観から解放された自由な生き方が生まれてきます。人が人として真に生きるべき姿がそこで明らかにされてきます。

イエス・キリストにおいては神の言葉を聞くことと御言葉を語ることと御言葉を行うこととがまったく一つのことでそれが分かれていませんでした。そのイエス・キリストにおいて真の自由と完全な人間の姿を見ることができます。私たちはイエス・キリストに倣って、聞くこと、語ること、行うことが一つであるような生へと招かれているのです。

さて、これまで、御言葉を聞いて行うことをヤコブから聞いてきたわけですが、そのようなことを聞くときに必ずと言ってよいほどに起こる二つの誤った反応について最後に考えてみましょう。

一つは、「御言葉を行う人になりなさい」という言葉を聞いたときに、そんなことを言われても自分にはできない、という反応が出てくることです。あるいは、病気の人や高齢の人はどうなるのか、そういうつぶやきが出てくることもあります。私たちはここで画一的な神の言葉の実践を求められているのではありません。そうではなくて、それぞれにふさわしい形で御言葉を行う人になるということが大切です。それはその人自身が御言葉を聞く中で示され、選び取り、決断していくものです。開き直らず、神との真剣な向き合いの中で示されたことを御言葉への応答の行為としていくのです。一つの神の言葉の中にも多様な行いの可能性があるはずです。自分はこれを聞いた、しかしあの人は同じ御言葉の中から別の行動を聞き取った、そういうことは十分あり得ます。神は豊かなお方です。一つの御言葉の中に多様な行いの可能性を込めて私たちに語ってくださるのです。

もう一つ考えておきたいのは、自分は御言葉を行っているけれども、あの人は行っていないではないか、という裁きの根拠としてこのヤコブの言葉が用いられてはならないということです。確かに、行いというのは表に現れてくるものです。しかし、自分の前に他人の行いのすべてが現れているわけではありません。私たちの知っている他の人の行為は一部分にしかすぎません。その点から私たちは、あの人は聞くだけで何も行っていない、などと軽率に判断してはならないのです。いや、問題は他人ではなくて、何よりも自分です。一人一人が自分自身のこととして神の言葉に熱心に聞くことによって、自分は今、神に何を求められているかを明らかにしていかなければなりません。また自分の中で聞くことと行うこととはどのように結びついているかということを問い続けていくことが求められています。

 

「御言葉を行う人になりなさい。」私たちはこの言葉の光のもとで自分自身の在り方を吟味し、検討することが求められています。御言葉による真摯な吟味と自分を検証すること、そして祈りをもってそのことをなす行為、それが私たちの向かって行くべき方向を明らかにしてくれるに違いありません。私たちは自分自身の事柄としてヤコブの言葉を受け止めて、内容を深めていく作業を始める出発点に、今立たされているのです。