「神の配慮」

                         ヨナ書4章5~9節 

                                               水田 雅敏

 

ヨナは、神の命令を受けて、悪が満ちていたニネベの都に出かけて行き、神が命じられた通りに、あと四十日すればニネベの都は滅びると宣べ伝えました。それを聞いたニネベの人々は悔い改めて、神のもとに帰りました。そのために神は初めに計画していたニネベの都を滅ぼすことを思い直されました。それはニネベの人々が救われたことを意味します。しかし、ヨナは、神のこのような為さり方に納得できず、激しい怒りを覚えて、「主よ、どうか今、わたしの命を取ってください」と抗議します。異教の人々が救われるなどということは、彼にとっては受け入れられないことだったのです。そのようなヨナに対して、神は、「お前は怒るが、それは正しいことか」と問いかけられます。

すると、それに対してヨナは一つの行動に移りました。

4章の5節にこうあります。「そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。」

ヨナは、都の東の方に小さな見張り小屋を建て、ニネベの町の成り行きを伺おうとしました。「ニネベの人々は、今はわたしが告げた言葉によって悔い改めて、神に赦されている。しかし、四十日が過ぎるまで神がどうなさるか分からない。それを見届けよう。」おそらくそういう思いがヨナの心にはあったに違いありません。

神の為さることにへの不信感と共に、最初の言葉どおりニネベの町が滅ぼされることをまだ期待している、そういう面がここに表されています。さらに言うならば、ヨナは、自分が考えているとおりに神が動かなければならない、自分が願っているとおりに神が動くべきだと考えているとさえ言ってよいでしょう。

ヨナの頑なさを見せつけられると同時に、私たちもまた同じように、神の御心が分からなくなって、自分の思いのままに神が動くべきだ、それでこそ私の神だと考えてしまう面があることを考えさせられます。

このようなヨナに、神はどう関わられるのでしょうか。

6節にこうあります。「すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。」

海の中に放り込まれたヨナに、神が巨大な魚を備えて助けてくださったように、今度は暑い日射しを受けて苦しんでいるヨナの苦しみを和らげるために、神はどうごまの木を備えてくださいました。

このとうごまの木が神によって備えられたものであることをヨナがどれほど知っていたかは記されていません。しかし、彼は、自分はまだ見捨てられていないという思いを持ったに違いありません。

4章の1節に、ヨナは「大いに不満であり、彼は怒った」とあります。そして、今度はとうごまの木のことで、「ヨナの不満は消え…大いに喜んだ」と6節にあります。

このように、大きな不満から大きな喜びに激しく揺れ動くヨナは人間的だと言えば確かに人間的ですが、それと同時に、私たちはそこに彼の信仰者としての未熟さが表されているとも考えさせられます。自己中心に物事を考えるために周囲の動きによって激しく揺れ動くヨナ、それが彼の姿です。神を中心に物事を考えることができればヨナの生き方はもっと違ったものになったはずです。

7節から8節にこうあります。「ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。日が昇ると、神は今度は焼きつくような東風を吹きつけるように命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。『生きているよりも、死ぬ方がましです。』」

神は、せっかく生えさせヨナを喜ばせたとうごまの木を、次の日、虫に食い荒らさせて、枯れさせてしまわれました。そのために日陰はなくなりました。さらに、神は焼きつくような東風を送り、太陽の日射しをヨナの上に降り注ぐようにされました。何だか神の嫌がらせのようにも思えるような出来事が続いていますが、そうではありません。ここには神の教育的な深い配慮が秘められています。

ヨナは、熱風と暑い日射しのためにぐったりとなり、次のように言いました。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」ヨナは再び死を願っています。4章の3節と同じ言葉がここで繰り返されています。変わりやすい感情の持ち主であるヨナの姿がここでも描かれています。自分に都合のよいことが起これば単純に喜び、それとは逆のことが起これば落胆し、死さえ願うほどになるのです。

死ぬほどに暑くて苦しいのであれば、今いる場所から離れればよいと私たちは考えます。しかし、ヨナはそこを動かずに、その場所に留まります。自分自身の心の方向を少し変えれば、自分の取り巻く状況や環境も変わり、生きることが喜びや感謝に満ちたものになることもあり得るのに、彼はそうしないで周りを変えようとします。そうして、自分の思い通りに事柄が進まないときには怒り、命さえ呪うのです。

9節にこうあります。「神はヨナに言われた。『お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。』彼は言った。『もちろんです。怒りのあまり死にたいぐらいです。』」

神は、ヨナがとうごまの木が枯れたことを悲しんでいることを彼にはっきりと自覚させて、あなたがとうごまの木をそれほどに惜しむ気持ちと変わらず、いや、それ以上に、わたしは人の命が奪われること、人の命が空しく滅んでいくことを悲しむのだということを教えようとしておられます。神はニネベの人々の死を悲しまれるお方です。また、ヨナの死をも神は悲しまれるお方です。そのような、神の悲しみや人間への限りない愛を、神はとうごまの木が枯れたことを悲しみ、怒るヨナ自身の体験を通して教えようとしているのです。

私たちはもう一度、ヨナの誤りが何だったかを考えてみたいと思います。ヨナの生き方の根幹にあるもの、それは何でしょうか。それは、神の前で常に新たに自分のあり方を問うことではなく、自分がいつの間にか身につけた確信や固定観念で全てを推し量ろうとすることです。

その確信や信念に周囲で起こる事態や出来事が合致していれば、ヨナは喜び、満足も覚え、そして生きようともします。しかし、逆に、周囲の状況が、たとえそれが神がなさることだったとしても、自分の考えや信念に合わなければ、周りが間違っている、神が為さることのほうが間違っていると考えて、不満を覚え、怒りを抱き、そして、そのような神と争って生きているよりも死ぬ方がましだと口走る、それがヨナの姿でした。

では、ヨナの為すべきことは何でしょうか。それは自分の確信や信念や考えですべてを測るのではなくて、事柄が自分が考えていることと異なった形で起こったときに、神の御心は何であるかを問うこと、神が為さることの意味は何なのかを見出そうとすることです。そして、神の前にあって自分の変わるべきものが何であるかが示されたならば、それを変えつつ、もう一度新たに神との関係の中で自分の生き方を立て直し、向かうべき方向を定める、これがヨナの為すべきことでした。

神が為さることの奥にあるもの、それはしばしば人間には悟ることができず、すぐには分からないことが多いものです。だからこそ、神が為さることの奥にあるものは何なのかをとことん問うて、神の御心を遂には見出して平安を得ること、それがヨナの為すべきことでした。その確信に至るまで、ヨナは問い続けなければなりませんでした。すぐに怒らず、すぐに落胆せず、何か不満があると死ぬ方がましだと言わずに、神は生きることを求めておられる、そのことを神の前で発見するまで問い続ける姿勢が彼には必要でした。そして、それは私たちにも通じることです。

しかし、ヨナにはまだ希望があります。それは、ヨナが死を願う状況にあっても、神がヨナを見捨てておられないからです。ヨナが神から離れようとしていても、神は依然としてヨナを相手にしてくださっている、そこに希望があります。

矛盾に満ちている私たちの社会です。自分自身の中にも矛盾があり、心の葛藤を常に抱えている私たちです。社会の様々な不条理、理不尽な出来事のゆえに、生きているよりも死ぬ方がましだと考え込むこともある私たちです。

そのような私たちを、神は勝手にせよとは言われません。突き放すことは為さいません。神はそのように苦しむ私たち一人一人をいとおしく思ってくださるお方です。「わたしの愛と憐れみと赦しの中であなたは生きて行きなさい。わたしの心を知って、それをあなたの心として、平安のうちに生きて行きなさい」と呼びかけてくださっています。御自分の御手を私たち一人一人に差し出してくださっています。私たちが自分の命に心を配る以上に、神は私たちの命に、私たちが生きることに、心を配っておられるのです。

 

私たちはそのことに気づかなければなりません。そして、それに応えなければなりません。それは神の御心を問いながら精一杯一日一日を生きることです。ここに神の赦しと慈しみに応える私たちの生活があると思います。