「まことの王イエス」

                                               ヨハネによる福音書121219

                                                                                                             水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の12章の12節から19節です。

12節から13節の前半にこう記されています。「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。」

なつめやしは高さが15メートル以上にも達し、葉は1,5メートルにも達することもある木です

「なつめやしの枝」と聞きますと、ヨハネの黙示録の7章を思い起こす方もいらっしゃるのではないでしょうか。ヨハネの黙示録の7章にはなつめやしの枝を持つ人々の姿が描かれています。

その9節から10節にこう記されています。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と子羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、子羊とのものである。』」

この白い衣を身に着けた大群衆が誰であるかについては、その先の14節の後半にこう記されています。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を子羊の血で洗って白くしたのである。」

白い衣を身に着けた大群衆とは「大きな苦難を通って来た者」、すなわち殉教者です。

この「大きな苦難」については、その先の16節から17節にこう説明されています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる子羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく ぬぐわれるからである。」

白い衣を身に着けた大群衆は、ただ信仰の戦いを戦い抜いたというだけではなくて、涙を流し続ける旅をしてきました。しかし、神が彼らの涙をことごとく拭い去ってくださるので、もはや涙することがなくなるというです。そのように、ここには信仰の戦いを生き抜くことができた人々が知る慰めが語られています。

そのような旅する信仰者たちの姿が、私たちにさらに呼び起こすのは、巡礼者の群れの姿です。今日の聖書に戻りますが、主イエスはここで大勢の群衆に迎えられました。この群衆にはエルサレムに巡礼に来ていた人々も含まれています。

当時の人々は、エルサレムに、出来れば一年に一回は巡礼に行きたいと願っていました。しかし、遠くの国々に住んでいる人々にはそのようなことはとても無理でしたから、せめて一生に一度、エルサレムの神殿を詣でたいという思いに生きていました。遠くのほうから来るためには、まさに飢えと渇きに耐えて旅を続けて来なければなりませんでした。

そのような死とそれを越える命を思い続けてきた人々がいたからでしょう。主イエスがエルサレムに来られると聞いた時に、群衆の心は激しく動かされました。

17節から18節にこうあります。「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。」

私たちはここで、二種類の群衆を考えることができます。まず、エルサレムにいつもいる人々がいます。彼らは巡礼者たちが来る前にエルサレムの近くのベタニアで、イエスという方がラザロを墓から呼び出したということを聞きました。また実際そのラザロを見ました。そして、その興奮した思いを、エルサレムを訪ねて来る巡礼者たちに次々と語りました。そこで、この二つの群衆が一つの渦のようになって主イエスを迎えたのです。

19節では、主イエスに敵対しようとしていたファリサイ派の人々が諦めの言葉を漏らしています。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」

「まるで全世界が、あのイエスという男に従ってしまっているかのようだ。従っていないのは自分たちぐらいのものだ」。そういう言葉で、この記事は終わっています。

しかし、同時に私たちは、この騒然とした群衆の出迎えの光景を読むと、複雑な心境になります。

13節に「迎えに出た」という言葉があります。18節に「出迎えた」という言葉があります。この二つの言葉は、ただ誰かに会うとか誰かを迎えるということではなくて、自分たちの王を迎える時にも用いられた言葉です。群衆は主イエスを自分たちの王として迎えたのです。

しかし、そうであればあるほど、私たちは苦い思いを抱きます。なぜなら、この主イエスを迎えた群衆が、このあと「イエスを十字架につけろ」と叫び始めることを知っているからです。主イエスのあとについて行った人々、全世界がついて行ったかと思われるような人々が、このあと、ファリサイ派の人々が主イエスを十字架につけようとした時、これを殺そうとした時、身を張って自分たちの王を守ったとは、どこにも書いていないのです。

そのために、私たちはこの群衆の心を初めから疑って読みます。「何といい加減なことだろう。何と軽薄なことだろう」。そう思いながら、いつの間にか私たちが自分自身の心をどこに置いているかというと、「私たちは違う。私たちはこの群衆のようないい加減な心で、軽薄な心で主イエスを迎えたりはしない。主イエスがどのような意味において王であられるかということを、私たちはよく知っている」、そう考えます。

そのように読んでいく時に、しかし、私たちがさらに「思いがけない」と言ってもよい思いを抱くのは、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と群衆が叫び続けた時、その叫びを聞きながら、「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」と書いてあることです。14節の前半です。

私たちはこれまで、主イエスがどのような歩みを続けて来られたかということを学んできました。

例えば、6章において、主イエスが五千人以上の人々に僅かなパンと魚をお分けになるという奇跡をなさった時、人々は「これこそ、自分たちの王とすべき方だ」と考えました。

また、6章の15節には「イエスは、人々が来て、自分を王とするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」と記されていました。

今日の聖書の群衆の心理はそれと同じではないかと考えることができます。

そうであるなら、ここで主イエスは、なぜさっさと退いて、もう一度ベタニアにでも引きこもろうとなさらなかったのでしょうか。主イエスはこの群衆の歓迎を受けておられます。それはどうしてなのでしょうか。

「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。」

大きな馬ではないのです。ろばの子というのは、権威ある王、力を誇示する王が乗るようなものではありません。つまり、主イエスは力によって君臨されない王だということです。

ここに、群衆のいい加減で軽薄な迎え方をも超える主イエスのなさり方が示されています。確かに、この群衆は図々しい人々です。図々しいにもほどがあります。「あとで主イエスを殺すくせに」と私たちは思います。しかし、私たちが知っている以上に、主イエスは、この群衆が罪人の集まりであることをよく知っておられた、この群衆も加担する死刑の判決によって自分が殺されるということを見抜いておられたのです。

それなのに、主イエスは「お前たちの心は汚れているから」と言って群衆の歓迎を拒否なさいませんでした。それをお受けになりました。主イエスは愚かな人間の手によってご自分が裁かれることをお赦しになるのです。なぜなら、主イエスは、この人々を、まだ信頼しておられるからです。必ずこの人たちはわたしのところに帰って来ると希望を抱いてくださっているのです。

私たちは主の日のごとに礼拝を献げます。主の日というのは、主イエスが復活された日ということです。それと共に、主の日というのは、主イエスが、こんなに信頼していてくださるのに、こんなに希望を置いてくださっているのに、結局は、その信頼と希望を裏切るかのように、主イエスを十字架に追いやってしまう者たち、まさにそこで死ぬよりほかないような私たちが、新しくされる日でもあります。

そういう意味で、私たちは、この群衆と決して遠くはありません。むしろ群衆の中に私たちがいることに気づかされるのです。

そのことが、そこに居合わせた弟子たちにもよく分かったのは、もっとあとのことだったとヨハネによる福音書は16節に書いています。「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」

「イエスが栄光を受けられたとき」というのは、「主イエスが十字架につけられたとき」ということです。その時、弟子たちは、「イエスについて書かれたもの」、すなわち旧約聖書の預言がそこで成就していたことを悟ったのです。それは、そのような意味において、主イエスは王だったということを悟ったということです。

ヨハネの黙示録の著者が、ここに書かれているなつめやしの枝を改めて手にして、神と子羊の玉座の前に立っている白い衣を身に着けた大群衆を思い浮かべた時、その中に、この弟子たちを加えていたに違いありません。「その先頭に立って、弟子たちがなつめやしの枝を振っている」。

この時、弟子たちはなつめやしの枝を持てなかったのだと思います。「何だ、この出来事は」という思いで、傍観者の立場に追いやられていたのかもしれません。しかし、あとになって、彼らは深く知らされるのです。「主イエスこそ、この方こそまことの王だった」と。

私たちに問われていることは、「あなたもなつめやしの枝の用意があるか」ということです。私たちが、真実に、主イエスを王として、ほかのいかなるものとしてではなく、主イエスをまことの王として迎える用意があるかということです。

 

この神の恵みの招きを、私たちは心に深く受け止めたいと思います。