「来るべき都を目指して」

                     ヘブライ人への手紙131421

                                                   水田 雅敏

 

今日、私たちは創立記念日、永眠者記念礼拝を献げています。

この日、私たちは先に召された方々の信仰を思い起こし、それを受け継いでいく思いを新たにします。それは長い教会の歴史から生まれたものです。

ローマ・カトリック教会では古くから111日を「諸聖人の日」として守ってきました。諸聖人の日は亡くなった聖人たちを記念する日です。

私たちプロテスタント教会ではこの諸聖人の日の主旨を活かして、聖人ではなくて、先に召された教会員や会友を覚えて記念する日として守ります。

私たちの教会が所属する日本キリスト教団の暦では11月の第一日曜日が「聖徒の日、永眠者記念日」となっています。それで多くの教会は、その日に召天者記念礼拝を守ります。しかし、私たちの教会は9月の第三日曜日に記念礼拝を行います。それは922日が私たちの教会の創立月日だからです。その日に一番近い日曜日に記念礼拝を献げるのです。

私たちの教会は1899年にM..マデン宣教師が仙台で伝道を開始してから124年を数えます。この礼拝に出席している方々の多くが、ここに覚えられている人たちと何らかの繋がりを持っています。あるいは、ここに覚えられている人たちとの繋がりはなくても、私たちは皆、愛する人、親しい人を天に送ったという経験を持っています。父、母、兄弟、姉妹、あるいは、子供、祖父、祖母、恩師、友人など、愛する人との別れを経験しています。そして、愛する人を失った悲しみ、寂しさを味わっています。

しかしまた同時に、私たちは、この礼拝で心の奥底に大切にしまっている幸いな記憶をも思い起こしているのではないでしょうか。今は天にある父が、母が、妻が、夫が、兄弟が、姉妹が、そして、子供が、恩師が、友人が私たちにしてくれたこと、愛する人から語りかけられた言葉やその仕草、それらの記憶が浮かび上がってくる時、私たちは悲しみ、寂しさを超えて懐かしい温もりを感じます。

そして、それは愛する人たちがこの世にあった時、その人たちを生かしてくださった神の愛を思い起こすことに繋がっていきます。愛する人たちが主イエスと出会い、主の愛に包まれ、主に守られて生きてきた、その人たちを生かした主イエスの愛が、私たちをも包み込んでいくのです。

愛する人たちは、この地上にあった時、主イエスに抱きしめられ、「わたしにとってあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という御声を聞いたのです。そこから生きる希望を与えられたのです。また、困難の中で、「恐れなくてもよい。わたしはあなたと共にいる。決して見捨てることはない」という励ましの言葉を聞いたのです。それによって立ち上がる勇気をいただいたのです。

主イエスと召された人たちのそのような愛の交わりが私たちをも包み込んで、私たちにも希望を与えてくれた、それによって私たちも励まされた、そのような記憶を思い起こすのです。

愛する人たちの思い出と主イエスの言葉が重なり合うようにして私たちに聞こえてくる、それをしっかりと捉えて信仰の耳で聞いていく、それが今日、私たちがこの礼拝を献げる意味です。

この礼拝はお寺で行う法要とは違います。法要は亡くなった方の冥福を祈ることです。けれども、この礼拝は召された方々のために行うのではありません。召された方々は既に天において神の懐に抱かれています。この礼拝は遺された者たちのために行われるものです。遺された私たちが、召された方々の歩んだ道筋を思い起こし、その方を生かしてくださった主イエスに思いを馳せ、神と故人の前に今の自分の生き方を顧みるのです。そして、これからの歩みを神と故人に約束するのです。さらには、召された方々から受け継いだ信仰を、今度は私たちが人々に伝えていく、そのことの大切さを再確認するのです。

今日、私たちに与えられた聖書の箇所はヘブライ人への手紙の13章の14節から21節です。この手紙は教会に対するローマ帝国の厳しい迫害の最中に書かれたものです。しかし、迫害に身を縮めて受け身の信仰生活を送るのではなくて、むしろ積極的に出て行く生き方を勧めています。

この箇所の直前の13節では「わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」と呼びかけています。

自分たちを保護してくれる陣地にただひたすら籠っているのではなくて、その外に出て行こうではないかと呼びかけているのです。

それだけではなく、同時に、この世に執着しない生き方をも勧めています。

14節に「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」とあります。

この世に執着しない積極性、それは、この地上に永続する住まいを持っておらず、天の都を探し求めているという生き方です。私たちは天の都を目指して旅をしている者なのです。

召された方々は旅する者として、この地上の生を生き抜かれ、天に帰りました。私たちも天の都を求めてこの地上の生を生きていきたいと思います。その時、初めて、私たちの口には絶えず賛美が溢れ、善い行いと施しに喜んで務めることができるようになるのだと思います。

続く17節の御言葉はこう語っています。「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。」

この「指導者」という言葉ですが、今日、私たちは、天に帰られた私たちの愛する方々お一人お一人をこの言葉によって思い浮かべたいと思います。

私たちのことを愛してくださり、優しい温もりを残して天に帰られた方々は今、天で何をしているのでしょうか。御言葉は語っています。「この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。」召された方々は今、私たちの魂のために心を配っているというのです。

ここで「心を配る」と訳されている言葉は、もともとは「寝ないで見張っている」という意味の言葉です。寝ずの番をしているのです。それは「神に申し述べる」ためです。召された方々は私たちのために神に執り成しをする者として寝ずの番をしているのです。

私たちのための執り成し、それは私たちがこの地上に生きている時だけではありません。この世の終わりに、私たちは皆、神の前に立つことになります。その時、一人一人の歩みが神によって点検されます。けれども、その時、私たちは独りではありません。先に召された方々が私たちの傍らに立って神に執り成してくれるのです。弁護してくれるのです。

ですから、聖書は召された人たちが神の前で私たちのことを喜んで弁護できるようにしようではないかと呼びかけているのです。私たち一人一人のために弁護してくれる時に、召された方々が嘆いたり困ったりしたりしないようにしよう、いや、むしろ喜んで弁護することができるようにしよう、召された人たちの悲しみの種ではなく、喜びの種になるような生き方をしていこうではないかと語りかけているのです。

天で自分のことを神に執り成してくれる人がいるということは、私たちにとって大きな慰めであり励ましです。こんなに力強いことはありません。

そして、その人たちが喜んで自分のことを神に執り成してくれるように、それにふさわしい者になりたい、と思わされます。召された人たちが嘆きながら、冷や汗をかきながら執り成しをするのではなく、喜び勇んで私のことを弁護してくれる、そういう者になりたいと思います。

そして、さらに、私たち自身も、やがて天に帰り、私たちのあとに続く人たちのために神の前に立って執り成す者になるのです。私たちはその人たちのために良き弁護者として神の前に立つことができる者になりたいと思います。「あなたがそんなに喜んで弁護するのなら、わたしも喜んでこの人を受け入れよう。」神がそう言ってくださるような執り成し手になりたいと思います。

この手紙は20節から21節に祝福の言葉を述べて結んでいます。この祝福の言葉は「羊の大牧者の祝福」と呼ばれているもので、結婚式の最後の言葉として用いられることもありますし、葬儀の最後に用いられることもあります。物事の最初においても締め括りにおいても用いられる言葉なのです。

 

最後にこの祝福の言葉に込められた恵みを、ご一緒に心の内に味わいたいと思います。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」