「真の宝」

                       ヤコブの手紙516節 

                                                                                                       水田 雅敏

 

聖書には富の問題、あるいは富んでいる人たちの問題がしばしば取り上げられています。そして、富というものを危険なものと見なしています。富そのものが悪とか無価値だというのではありません。富はある意味では必要なものです。善悪ということからいえば中立的なものと考えてよいでしょう。しかし、富は人間にとってある種の悪魔性を持っているもの、人を誘惑する力を持っているものというのが聖書の見方なのです。

そのような性格を持つ富への関わり方、姿勢によって、その人の人間性が測られ、さらに神との関係が決定づけられるということを聖書は語っています。それゆえに聖書は繰り返し富や富んでいる人たちを問題にするのです。

それではヤコブの手紙は富んでいる人たちに対してどのように語っているのでしょうか。

1節にこうあります。「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。」

「富んでいる人たち」とあります。これは地主たち、土地の所有者たちのことだと考えられています。それでは彼らにふりかかってくる「不幸」とは何でしょうか。

その第一は彼らを富ませている富そのものが富でなくなることがあるということです。

2節から3節の前半にこうあります。「あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。」

富が朽ち果てるということが最初に出てきます。地主としての富ですから穀物のことが考えられているのかもしれません。大量に穀物を蓄えてもそれが腐ってしまうことがある、あるいは土地を広く持っていても土地が使い物にならなくなることがあるといいます。

また衣服も古代の人々にとって大切な宝でした。しかし、これも虫が付いて食い破られ、財産としての価値を失ってしまうことがあるといいます。

さらに金や銀といった、とっておきの宝さえ錆びてしまうことが語られています。実際にはそう簡単に錆びることのない金銀でさえ使い物にならなくなる時が来るというのです。

このように、富んでいる人たちの不幸の第一は、自分を支えていた地上の宝、自分の将来を保証すると考えていた地上の宝が永遠不変のものなのではなく、それが朽ち果てて使いものにならなくなる時が来るのにそれを知らないことにあります。そのような惨めさが富んでいる人たちにはあるのだということです。

第二の不幸は、富んでいる人たちにはそのように地上の富の価値を失うとか富そのものを失うことが起こるだけではなくて、彼ら自身もついには神の前でその命を失うということです。そして、それこそが1節の「泣きわめきなさい」と言われていることの中心にあることです。

3節にこうあります。「このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。」

地上の宝を誇り、それに頼って生きる人は、いわば富を自分の神として生きてきた人たちです。しかも、その富は、このあとの4節にあるように、不正な手段を用いて手にしたものです。

金銀が錆びていくことはその所有者自身が神の前に錆びていくことのしるしであって、その富は彼らを守ることはできません。地上の富は終わりの時に価値を持つものではない、逆に不正な手段によって得た富は彼らの罪を告発する働きをすることになる、そしてその罪の告発のゆえに、富んでいる人たちは神の前に永遠に滅びてしまう、そのことを知って泣きわめきなさいとヤコブは語っているのです。

こうして、富んでいる人たちはその富のゆえに自らを神の裁きの前に立たせることになります。富そのものが朽ち果てていくことがあるという第一の不幸に加えて、その富のゆえに彼らは神の前で裁きを受けなければならなくなるという第二の不幸が彼らを襲います。 だれもが死ぬ、しかし富んでいる人たちの死は永遠の滅びに至る死だとヤコブはいうのです。

ところで、富んでいる人たちの不正とは何だったのでしょうか。ただ地上の富を多く持っているということだけで彼らは裁かれるのではなくて、その富に絡んだ罪があったのです。

4節にその不正の内容が明らかにされています。「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」

富んでいる人たちの不正の第一は、畑で刈り入れの仕事をした労働者に賃金を支払わなかったことです。賃金の支払いが行われなかったことによる労働者の苦しみ、それが「支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」という言葉で表現されています。そして、その人々の痛切な叫び声は万軍の主なる神の耳にまで達しているとヤコブはいっています。

神は富んでいる人たちの不正を御存じです。富んでいる人たちは隠し通すことができない不正を犯してきました。その終わりを思ってあなたがたの生き方を考えなさいとヤコブは語りかけているのです。

第二の不正は5節に記されています。「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ」。

ここには、富んでいる人たちが賃金を支払わなかったために苦しんでいる労働者だけでなくて、そのほかの貧しい人たちの存在を身近に知りながら、それらの人々を顧みず、享楽の限りを尽くした生活ぶりが描かれています。

そして、第三の不正として6節の事実が指摘されます。「正しい人を罪に定めて殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」

おそらく金銭に関する裁判において、富んでいる人たちが訴えられたのでしょう。しかし、富んでいる人たちの側に明らかに不正があり、罪があったにもかかわらず、彼らはお金によって法廷をも支配し、裁判官を買収し、正しい人を罪に定めて死にまで追いやったのです。正しい人は抵抗するすべもなく、正しい裁判を要求するだけのお金もなく、不正な裁きによって殺されていったのです。

こうして、富んでいる人たちの三つの不正が指摘されています。これらのことは正義と公平と愛を基本とする神の戒めを無視することであり、ひいては神御自身に逆らうことです。

富んでいる人たちは地上の富、宝、金銀以上のものがあることを知らない人たちです。あるいはそれを示されても意に介さない人たちです。ヤコブはこの手紙の中で、おごり、高慢を繰り返し否定し、へりくだり、謙遜を強調してきましたが、まさにおごりの中に生き、高慢の中に生きる人たちの罪がここでも明らかにされています。

そのことが5節の「屠られる日に備え、自分の心を太らせ」という言葉で語られています。

「屠られる」というのは子牛などの動物が犠牲の献げ物として屠られる、あるいは食卓のために屠られるという意味の言葉です。その屠られる日のために動物は十分に食物を与えられて太らされます。しかしそれは死ぬために太らされるのです。それとよく似て、富んでいる人たちの富は自分たちの滅びのために彼らを太らせてきた、自分たちの屠りの日に備えて彼らは自らを太らせてきた、このようにヤコブは語っているのです。

3節にも「あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう」と言われています。

ヤコブは富んでいる人たちの肉体の死を語っているのではありません。終末の審判のことを語っています。その日が来ることを彼らは知らない、その裁きを行われる神を知ろうともしない、神を恐れることもない、享楽にふけることの究極の悲しさはそこにあるということを私たちは教えられます。

ヤコブのこれらの告発と裁きの宣告を聞きながら、私たちは神の前に受け入れられる生き方とは何なのかということを改めて問われています。所有欲からの解放、貧しい人たちとの関わり方、他者と共に生きる関係の在り方、富を正しく用いていくこととはどういうことなのかなどなど、様々な問いを突きつけられています。あるいは与えられている今の時というものをいかに用いるか、終わりの時から今を見つめつつどう生きていくかという問いも投げかけられています。そして、究極的には、神に仕えるか、それともそれ以外のものに仕えるかの二者択一の決断が求められていることを私たちは知らなければなりません。

弱く、迷いの多い私たちです。永遠を思うよりも目先の喜びを選びがちな私たちです。しかし、そのような私たちに、神は御子イエスを通して信仰による救いという宝を用意してくださいました。朽ち果てることのない、虫が食い尽くすこともない、さびることもない宝を神は用意してくださっています。

 

神以外のものに頼らなくても、神御自身が保護者として私たちを守ってくださるとの約束を、御子イエスを通して、神は私たちに与えてくださっています。私たちはその恵みへと招かれています。そこにこそ真の富があるということを、このアドベントの時、私たちは、改めて覚えたいと思います。貧しさの中にお生まれになり、飼い葉桶に寝かされた御子イエスを心に迎える準備をするこの時に、改めて覚えたいと思います。