「永遠の命に至る泉」

                      ヨハネによる福音書4126

                                                  水田 雅敏 

 

今回からヨハネによる福音書の4章に入ります。

この4章の大半を占めているのは主イエスとサマリアの女の記事ですが、この箇所を前半と後半の二回に分けてお話ししたいと思います。今日は主イエスとサマリアの女との出会いを中心にお話しします。

主イエスと弟子たちの一行はシカルというサマリアの町の井戸の所に到着しました。正午頃のことです。弟子たちは町へ食べ物を買いに行っており、主イエスだけがそのまま井戸の傍に座っておられました。

6節に「旅に疲れて」とありますから、夜中から、あるいは明け方からずっと歩き続けてこられたのでしょう。主イエスでもお疲れになるのです。当たり前と言えば当たり前なのですが、神の御子であれば疲れを知らないのかなと私たちはふと思ってしまうことがあります。しかし、神の御子が人となられたということは私たち人間が持つ苦労や疲れなども同じように背負われたということです。

そこへ水がめを持った女が近づいてきました。主イエスはこの女に「水を飲ませてください」とおっしゃいました。

女は驚いてこう言いました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。

この言葉には様々な思いが込められています。

一つは、このすぐあとに記されているように、当時、ユダヤ人とサマリア人は交際していませんでした。特にユダヤ人がサマリア人を軽蔑し嫌っていました。ですから、この言葉にはこの女が受けてきた民族的な差別に対する仕返しのような、ちょっと意地悪な響きが感じられます。「普段は口も利かないくせに困った時だけ頼み事ですか。自分でお汲みになったらいかがですか」。そのような思いが込められているように思います。

もう一つは、この女の個人的な理由によります。この女はできるだけ人と会いたくありませんでした。人と交わりたくなかったのです。わざわざ昼の最も暑い時間に水を汲みに来たのはそのためです。

当時、女たちはおもに家の中での仕事が多かったので、この水汲みの時間が貴重な社交の場でした。家の仕事からひと時解放され、近所の人たちと会話を楽しむことができたでしょうし、いろいろと情報交換もしたでしょう。しかし、彼女はそうした交わりそのものが嫌でした。誰からも声をかけられたくありませんでした。声をかけられなくても、ひそひそと噂をされることのほうがもっと嫌でした。人々からよそよそしい挨拶をされたあとに、「ねえ、今の人知ってる? こそこそこそ」、「まあ、そうなの! 人は見かけによらないわね」などと噂されます。

このあとの18節に記されているように、彼女には五回の結婚歴があり、今連れ添っている人も正式な夫ではありませんでした。彼女は身持ちのよくない女としてレッテルを貼られ、サマリアの女たちの交わりからも外されていたかもしれません。 

主イエスはその彼女に向かって「水を飲ませてください」と言われました。そういうふうに懇願することによって、主イエスは、みんなから嫌われ、自分でも卑下していたであろう彼女の下に立たれたのです。神の御子が、「喉が渇いたので、水を飲ませてください」とお願いしておられる、この一見矛盾するような姿にこそまことの救い主の姿があります。

この主イエスの姿はあの十字架の雛形ではないかとさえ思わされます。主イエスが十字架にかけられた時、その下を通る人々はイエスのことを罵りました。「ユダヤ人の王、万歳」。「神の子だったら、人を救う前に、自分を救ってみろ」。そのような嘲りの中で主イエスが惨めな姿で死んでいかれたのは、どんな人間の惨めさよりも下に立ち、その惨めな人間の惨めさを引き受けられたからです。

十字架上の主イエスの言葉も「渇く」でした。「喉が渇いた」ということです。その時、主イエスに差し出されたのは酸っぱいぶどう酒でした。それを飲まされると、よけい喉が渇く物です。しかし、それが主イエスにとって最後に許された唯一の飲み物でした。

そのような惨めな姿で息を引き取られることによって神の計画は成し遂げられた、成就したというのです。これが人間の中で一番下に立たれた御子の姿でした。

主イエスはこの女におっしゃいました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

女はこの言葉を理解することができませんでした。しかし、何か大事なことが含まれていると感じたのでしょう。イエスに対して「主よ」と呼びかけます。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」

自分の前にいるこの人はただ者ではないということを彼女は感じ始めています。彼女の中で既に何かしら変化が起き始めています。

主イエスは彼女にこうお答えになりました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

主イエスは10節ではご自分のことを「その人」と三人称で言われましたが、ここでははっきりと「わたし」と言われました。「わたしが永遠の命に至る水が湧き出る泉である」と言われたのです。

私たちは人を評価する際に、「あの人は器の大きい人だ」とか「あの人は器の小さい人だ」と言うことがあります。器が大きいというのは人間的な面で度量が大きいということです。ですから、私たちは器の大きい人を羨ましく思います。器が大きい人には余裕があります。ちょっとしたことには動じません。平然としています。人に提供できるものもたくさん持っています。

しかし、人間の器というものには限界があります。器が器である限り、いつもどこからか補充していなければなりません。そうでなければ、やがて尽きてしまいます。人間の器の大きさ小ささというのは相対的な違いでしかないのです。

私たちにとって大事なことは、自分の器を大きくすることではなくて、その器の中身をどこから補充するかということです。つまり、命の泉である主イエスと繋がっているということです。それによって私たちは、いつも自分自身が新たにされますし、人に何かを提供し続けることもできます。キリスト者として生きるということはそういうことです。

私たちは自分自身が新たにされる力の源を知っています。その方からエネルギーを得ています。人間は誰でも疲れます。しかし、その疲れを癒し、渇きを癒してくださる方がおられるのです。

旧約聖書のイザヤ書にこういう言葉が記されています。イザヤ書の40章の28節から31節です。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み 疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

 

私たちの教会には若い方もいますし、歳を重ねられた方もいます。それぞれに疲れを覚えます。渇きを覚えます。それぞれに躓き倒れてしまうようなこともあるでしょう。その都度、私たちは救い主イエスから命の水をいただいて、主と共に歩んでいきたいと思います。