「わたしだ。恐れることはない。」

                      ヨハネによる福音書6章14~29節 

                                                  水田 雅敏

 

前回、私たちは主イエスが五つのパンと二匹の魚を用いて五千人以上の人々に食べ物をお与えになったという奇跡物語を読みました。今日の聖書の箇所にも主イエスが水の上をお歩きになったという奇跡物語が記されています。

パンの奇跡のあと、弟子たちはガリラヤ湖の畔に下りて行き、湖の向こう岸のカファルナウムの町へ行こうとして舟に乗り込みます。主イエスは山に登って祈るために一人別行動を取っておられました。時は夕方であり、既に暗くなっていました。

弟子たちが舟を漕いで行くと、突然、強い風が吹いてきて、湖は荒れ始めました。ガリラヤ湖の天気は変わりやすいそうです。青空の日でも突然嵐がやって来て真っ暗になるということがしばしば、あるようです。弟子たちの舟は25ないし30スタディオンほど沖へ行ったところでした。1スタディオンは約185メートルですから、約5キロメートルということになります。

そこへ主イエスが現れます。舟に乗ってこられたわけでもなく、泳いでこられたわけでもありません。水の上を歩いてこられました。弟子たちはびっくりすると同時に恐れを覚えました。すると、主イエスは「わたしだ。恐れることはない」と声をかけられました。弟子たちがいわばホッとして主イエスを迎え入れようとすると、間もなく舟は目指す地に着きました。

ところで、この奇跡物語に先立つ14節から15節には興味深いことが書かれています。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」

人々は主イエスのなさったパンの奇跡を見て「これはすごい」と思ったのでしょう。主イエスを王にするために連れて行こうとしました。。しかし、主イエスは隠れるようにして山に退かれました。

人々は自分たちの願いを適えてくれる王を期待していました。それは御利益信仰のようなものかもしれませんし、あるいは政治的な救い主、ローマ帝国の支配を打ち破ってくれるヒーローのような救い主であったかもしれません。いずれにしろ、はじめにこちらの期待ありきなのです。主イエスは自分がどれだけ人々の歓迎を受けようとも、それが、自分がこの地上に来られた本当の意味を悟ったからではないということを見抜いておられたのです。

人々のほうはといえば、せっかく王にしようと思っていたのに主イエスが消えてしまったというので、捜し回ります。そして、舟で追いかけて、ようやくカファルナウムで見つけてこう言います。25節です。「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか。」

「さんざん捜し回ったのですよ。どうして姿を消してしまわれたのですか。」

それに対して主イエスはこうお答えになります。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

人々はパンの奇跡に感動しました。しかし、それは一時的なものに過ぎません。

ですから、27節で主イエスはこう言われました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」

このパンの奇跡の数時間後、長く見積もっても明くる日には、また、お腹が減るのです。主イエスは永遠にこのような奇跡をし続けるためにこの地上に来られたのではありません。ですから、この出来事はあくまでも一つのしるしであって、それがいったい何のしるしであり、何を告げようとしているかに目を向けないと意味がないのです。

この問答は次のように続きます。29節にこうあります。「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」

「何をしたらよいか」という問いに対する答えが「信じること」というのは何か少しずれているようにも思えますが、しかし、そのずれの中に大事なメッセージが含まれています。端的に言えば、主イエスは「わたしを受け入れ、わたしを信じなさい」とおっしゃったのです。あるいは、それ以外のことはそこから始まるのだといってもいいかもしれません。主イエスを受け入れ、迎え入れる時に私たちの人生は変わり始めるのです。

ただし、それはこちらの期待を満たしてくれる方を迎え入れるということではありません。それは本当の主イエスではなく、私たちの願いを映し出すイメージでしかありません。偶像なのです。そういう形ではなく、神が何を望んでおられるかを私たちは聞かなければなりません。そのことにまず心を向けることが大事なのです。

主イエスが嵐の湖の中に現れた時に弟子たちは恐れを覚えました。それは神と私たちとの出会い、あるいは主イエスと私たちとの出会いというものが、こちら側の期待を満たすのとは違った形で起こることを示しています。

私たちが主イエスと出会う時、恐れとおののきを呼び起こします。しかし、その主イエスご自身が「わたしだ。恐れることはない」と言ってくださることによって、私たちは安心して主イエスをお迎えすることができるのです。

主イエスは人々の勝手な期待を見抜いてそれを退けつつ、完全に拒否してしまうのではなく、本当の神との出会い、本当の神の姿というものをこういう形でお示しになったのです。

私たちの人生はしばしば航海に譬えられます。人生という大海原を舟に乗って旅をするのです。大嵐の連続のような人生を送られる方もあるでしょう。また、比較的小さな嵐しか経験しない人生を歩まれる方もあるでしょう。しかし、多かれ少なかれ、私たちはいつかは嵐に遭遇します。それは信仰を持っている者にも持っていない者にも等しく降りかかってくるものです。

ただ、いざ嵐に遭った時に私たちがいかにそれを乗り切るか、そのところで、信仰を持つ者と持たない者との違いが出てくるのではないかと思います。あるいは信仰を持っていると思っていても、そうした危機的な時にその信仰がいかにもろいものであるかを知らされることもあるでしょう。そこでその信仰が本物であるかが試されるのかもしれません。

賛美歌にも嵐や航海を歌ったものがあります。今日はその中から三つご紹介します。

まず賛美歌第二編の171番です。それはこういう歌詞です。「大波のように 神の愛が わたしのむねに 寄せてくるよ。漕ぎ出せ 漕ぎ出せ 世の海原へ。先立つ主イェスに 身を委ねて。」

次は讃美歌21456番です。「わが魂を 愛するイエスよ。波はさかまき 風ふきあれて、沈むばかりの わが身を守り、天の港に 導きたまえ。」

そして讃美歌2157番です。「あらしの日 波たける湖で 弟子たちにさとされた ちからのみことばを、わたしにも聞かせてください。」

嵐の海の中においても、主イエスは私たちに先立って導いてくださる、主の言葉が私たちに力を与えてくれると歌われています。

 

主イエスを迎え入れ、主の言葉を受け入れていく、そのことが長い人生の中で嵐に遭った時に私たちを支えてくれます。その信仰を私たちは今日新たにして、主イエスと共に世の海原に出かけて行きたいと思います。