「新しい言葉」

           ヤコブの手紙35b-12節 

                    水田 雅敏

 

舌を制御すること、つまり、言葉を制御することの困難さについて語られている箇所を私たちは今、学んでいます。3章の1節から5節の前半までを先週、ご一緒に学びました。そこでは教会の教師に関することが述べられていました。

そして今日の聖書の箇所の5節の後半から12節は教会のすべての人に向けての警告が語られています。

5節の後半から6節にこうあります。「御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」

舌は体の中では小さな器官ですが、それを正しく用いることができないときには重大な結果が生じてしまう、小さな火が大きい森を燃やしてしまうことがあるように、舌を制御することができないとき、つまり、言葉によって過ちを犯すとき、その人の存在全体をダメにしてしまうことがある、その人の人生をめちゃくちゃにしてしまうことがあるとヤコブはいいます。言葉の持つ大きな力というものが強調されています。

7節から8節にこうあります。「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」

7節に、人は神が造られた動物を制御することができるということが述べられています。これは創世記の128節で、神が人に向かって、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と命じられた事柄が背景にあります。人は神からそのように「動物を治めよ」という命令を与えられたことに応えて、動物を制御することができるが、しかし舌を制御することはできない、舌を制御することはそれほど難しいことなのだとヤコブはいうのです。

さらにヤコブはこの舌、言葉というものが持つ二面性というものをもう一つの問題として取り上げています。

9節から10節にこうあります。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」

一方で神を賛美しながら、他方で人間を呪うというように、一人の人の口から賛美と呪いが出て来る、これは神から与えられた舌を正しく用いていないことの表れだとヤコブはいいます。

そして、自然界のことを引き合いに出しています。11節から12節にこうあります。「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。」

神によって作られた自然界は造られたものに与えられている働きや目的に忠実に存在しているとヤコブはいいます。それに比べて、人は神に造られ、言葉を語る舌を与えられながら、神の御心に沿ってそれを用いていないではないかというのです。

この指摘の背後には、人には神を賛美し、人々に祝福を語るためにこそ舌が与えられているという確信があります。神を賛美することができる舌、人に向かって神の愛と恵みを語ることができる舌、それこそが最高度に舌や言葉を用いることなのだというのです。そのためにこそ人には舌が与えられているのだというのです。そのように舌を用いることが神の創造の御業なのだというのです。しかし、神をどんなに賛美しても人への呪いが同じ舌から出て来るとすれば、それは神がお造りになった人を呪うことですから、神を呪うことに繋がっていきます。それは神への呪いがそこでなされているに等しいことになります。

ある人が次のようなことを言っています。「人は二つの道を考えることはできるが、二つの道を生きることはできない。」

いろいろな道の可能性を私たちは考えることができます。ああいう生き方、こういう生き方がしたいと様々な道の可能性を私たちは考えることができます。しかし、実際には一つの体でしかない私たちは一つの道しか歩むことができません。

神を賛美しながら人を呪うというのは、二つの道を歩んでいるようですが、しかし、実際はそうではありません。それは神と人とを呪う一つの道を歩んでいるに過ぎません。つまり、そこでは神賛美そのものが偽りものとなってしまい、その人の真実はそこにはないことが明らかになるのです。神に向かって神を讃えているようでありながら、その神によって造られた者への呪いをもって生きることは神への賛美そのものが内容を伴っていないものであり、神に背を向けた一つの生き方がなされていることになる、そう見なされても仕方がないとヤコブはいうのです。

10節でヤコブは強い調子で、「わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」と言っています。

それでは、「このようなことがあってはならない」と言われる事柄から私たちが少しでも身を遠ざけることができるとしたら、それは何によるのでしょうか。神を賛美する道を人との関係においても歩むとするならば、それはどこにあるのでしょうか。どうすればその道を見出すことができるのでしょうか。

そのことのヒントとなるのが9節の「神にかたどって造られた人間」という言葉の中にあると思います。つまり、神が私たちに働きかけてくださることによって、神との正しい交わりを持つ者へと回復され、神が御自身にかたどって造られた在り方へと戻っていく道を、私たちは見出さなければならないのです。

それは、神が私たち人間のために送ってくださったイエス・キリストの真実に触れて、それによって私たちが新しく造り変えられることが起こらなければならないということです。神が造ってくださった人間の真実の在り方から遠い存在になってしまっている私たちが、私たちの救いの回復のためにこの世に来てくださったイエス・キリストによって捕らえられ、その愛に包まれることによって、神にかたどって造られた者にふさわしい者へと変えられていくことができるのです。そこでこそ私たちは新しい舌、新しい言葉を獲得する者とされるのです。

マタイによる福音書の12章の34節から35節でイエス・キリストは次のように言っておられます。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」

人の口からはその心にあふれていることが出て来るのだとイエスは言っておられます。それは心のうちにあるものが舌を通して言葉となって外に表れ出て来るということです。言葉にはその人の心が映し出されています。その言葉によって、その人は自分の人格を表すのです。言葉によって私たちは自分の人格を選んでいるのです。

言葉を語ることは、機械が音を出すというようなこととは異なって、その言葉を受け取る人に対して、ある態度を示すことと同じです。言葉が、ある人に向けられるということは、いい意味でも、悪い意味でも、その人との間に一つの関係が形づくられることです。そうであるならば、言葉を生み出す私たちの心が神によって新たにされることによってこそ、真実に神を賛美し、またほかの人に平和と希望を与えることのできる言葉を語る者とされていきます。

悪い言葉、呪いの言葉の裏には、その人の恨みや悲哀や生きることへの不安や解決されない憎しみなどによって満ちている心があるのかもしれません。そうであるならば、憎しみや人生に対する呪いが取り除かれて、その心が清められ、心穏やかにされるときに、そこから生み出される言葉も新しいものに変えられるでしょう。

そのことが起こるためにも、私たちは平和と希望そのものに触れなければなりません。真実そのものであられる方に触れなければなりません。私たちに向けられた神の愛を確実に受け止めなければなりません。それは、神が送ってくださったイエス・キリストによってのみ可能となります。イエス・キリストによって心が占領されることによって、私たちは新しい舌、新しい言葉を獲得する者とされるのです。

偽りのないイエス・キリストの真実、御自身は傷つけられることはあっても決して傷つけることを為さらないイエス・キリストの愛に、私たちは触れなければなりません。私たちの経験や知識を遥かに超えた人生を可能にしてくださるイエス・キリストの恵みに、私たちは心が満たされなければなりません。死をさえ恐れない新しい命を約束してくださるイエス・キリストによる希望によって、私たちの心が満たされなければなりません。

それを私たちが手にすることができるときに、またイエス・キリストによって自分も愛され生かされていることを確信することができる者となるときに、私たちの心は新しくされます。そして、そのようにされた心から生み出されてくる言葉は神への賛美と共に他者への愛に満ちた言葉となることでしょう。

 

語るべきときにふさわしい言葉を与えてくださる聖霊の助けと導きを求めながら、私たちは心から神を賛美すると共に、真に人を生かす言葉、平和と希望がその人の内に豊かに宿るような言葉を語ることができる者とされたいと思います。