「主の復活を告げ知らせる」

                      ヨハネによる福音書20118

                                                   水田 雅敏

 

イースター、おめでとうございます。皆さんの上に神の祝福がありますように。

先日、ある本を読んでいたら興味深い記事に出会いました。それはイギリスの聖公会のイースター礼拝について書かれたものです。

そのイースター礼拝は土曜日の夜に行われます。「土曜日の夜にイースター礼拝なんておかしいではないか」と思われる方もあるかもしれません。古代教会では、土曜日の夜から翌朝にかけて徹夜の礼拝を守り、夜明け前に洗礼式を執り行うという習慣がありました。東方教会はずっとそうした徹夜の礼拝の習慣を守ってきましたし、20世紀の後半からはローマ・カトリック教会でもそうした復活徹夜祭を再び守るようになってきました。イギリスの聖公会でもそれを行なっているのでしょう。

そのイースター礼拝はまず、教会堂の外で火を起こすことから始まります。それから、教会堂の玄関でその火をイースターのローソクに点灯し、全員が礼拝堂の中に入っていきます。会衆もめいめい自分のローソクに点灯してもらいます。そのあとに、「御言葉の礼拝」、「洗礼と堅信」、「聖餐」、そして「派遣」が続きます。

一番興味深かったのは、「派遣」のあとで、礼拝に参加した一同が礼拝堂の外に出て行って「世界に向かっての宣言」を行うという場面でした。教会堂の前に立ち、夜の町を行き来する人々に向かって、司祭がこう叫ぶのです。「恐れることはない。わたしはあなたがたが十字架につけられたイエスを探していることを知っている。その方は復活され、あなたがたの前を行かれている。来て、見なさい。ハレルヤ。キリストは復活された」。するとこれに答えて会衆が叫びます。「彼は本当に復活された」。さらに司祭が言います。「キリストの光と平和のうちに出て行こう。ハレルヤ。ハレルヤ」。会衆が答えます。「神に感謝。ハレルヤ。ハレルヤ」。すると道を行く若者たちの中から「ヒューヒュー」と冷ややかな声がするのです。イエス・キリストの復活を大声で町中に告げ知らせようとする教会と、それを冷かしながら通り過ぎて行く人々。

しかし、そうした情景は、イギリスだけでなく、世界中の教会が経験していることの象徴ではないでしょうか。さらに言えば、教会が地上に生まれてから今日に至るまで、ずっと経験し続けてきた現実の象徴であると言えるかもしれません。

イエス・キリストの復活は、誰にとっても自明の事柄であるというわけではありません。誰もが「そんなことは起こるはずがない」と考えていました。弟子たちもまた「そんなことは起こるはずがない」と考えていました。最初に墓にやって来たマグダラのマリアも「そんなことは起こるはずがない」と考えていました。

今日の聖書でマグダラのマリアは、「主が取り去られました。どこに置かれているのか、分かりません」と二回も繰り返し語っています。2節と13節です

この言葉はマリアが主イエスを死体としてしか考えていなかったことを示しています。マリアも、弟子たちも、誰もが、そのように考えていたのです

イエス・キリストは十字架で死なれました。十字架はローマ帝国の権力のしるしでした。そして、それは人間の罪の力の象徴であり、悪霊の力の象徴でもありました。人々はイエス・キリストを「十字架につけよ」と叫びました。イエス・キリストは十字架につけられたまま死なれたのです。誰もが、それで「すべては終わった」と思いました。イエス・キリストに敵対する人々も、イエス・キリストの弟子であった人々も、「すべてが終わった」と考えました。

しかし、実はそれは終わりではなく始まりだったのです。「神は人よりも強く、神は悪霊よりも強い」。十字架の出来事はこの単純な、そして厳然たる事実を、はっきりと告げ知らせる物語の始まりとなったのです。

イエス・キリストの復活、それは神がイエス・キリストを復活させたということです。そして、それは神が人間のたくらみを打ち砕いたということです。そして、それはまた、神が悪霊の力に打ち勝ったということです。ローマの総督ポンティオ・ピラトであろうと、ユダヤ教の大祭司であろうと、そのほかどんな人間であろうと、さらにはまた悪霊そのものであろうとも、神の力の前には無力であることを告げ知らす出来事、それがイエス・キリストの復活なのです。

十字架が人間の罪のしるしであり、霊の力の象徴であるとすれば、復活は人間の罪の限界、悪霊の力の限界を示す出来事です。教会は昔から今に至るまで、ずっとその事実を証しし続けてきました。教会が宣べ伝える福音の核心とは「神は人よりも強く、神は悪霊よりも強い」というこの単純な事実です。人間が悪知恵を働かして神に対抗しようとしても、悪霊がどんな手段を用いてイエス・キリストを攻撃しようとも、神は人間よりも強く、神は悪霊よりも強いのです。

教会がイースターを祝う時、私たちが聞くべき第一のメッセージはこの事柄です。「神は人よりも強く、神は悪霊よりも強い」。そして、教会がイースターを祝う時、私たちがこの世に向かって宣べ伝えるべき第一のメッセージはこの事柄です。「神は人よりも強く、神は悪霊よりも強い」。そのしるしこそ、私たちの主イエス・キリストの復活なのです。

しかし、現代という時代を顧みる時、はたして、この「神は人よりも強く、神は悪霊よりも強い」という事実が、どこまで現実となっているかをきちんと見極めることは、必ずしも容易ではありません。今という時代が二千年前に比べて、どれほど良くなったのか、あるいは悪くなってしまったのか、私たちにははっきりとは分かりません。

ある意味で現代世界は、ピラトやローマ帝国の時代以上に、政治的にも経済的にも社会的にも大規模で、複雑な混乱や暴力が支配している世界であり、自分たちの利益や満足のためには、周囲の人々や他の国々のことなど顧みようともしない世界であり、貧しい者、弱い者たちが虐待され、ないがしろにされている世界でもあります。

この二千年間、あるいは過去百年間を振り返っただけでも、人間は自分で自分の首を絞めるような数々の事件や出来事を引き起こしてきました。人類はやがて近い将来において、皆もろともに滅びに向かって突き進んでいるかのように見えなくもありません。いろいろなところから危機を伝える警告や助けを求める悲鳴が上がっているにもかかわらず、私たちはほかの人々や世界の問題について無関心であったり、未来に対する責任を無視しているかのようにも思えます。

しかし、イエス・キリストにあって生きる私たちにとっては、二千年前のあの復活の朝の出来事によって、この世界における真の決着はついているのです。人間の罪の力が打ち砕かれ、悪霊の働きも打ち破られて、今や逆に神の力が人間の罪と悪霊の力を圧倒し始め、神の恵みがこの世界に満ち溢れ始めたことを復活の出来事は告げています。

そして、そのような復活を信じる私たちは、この歴史が罪の勝利ではなく神の勝利に向かって進んでいることを確信するのです。私たちはその確信に支えられて、復活の主と共に歩み、神の国が完全な形で現れる時を待ち望みながら、この世において生きるのです

最初に言いましたように、この世界には、イエス・キリストの復活を大声で町中に告げ知らせる人々と、それを冷かしながら通り過ぎて行く人々が存在します。そのような現実の中で私たちは、最後に来るべきものが、人間の罪による世界の滅びではなく、恵みと憐れみに満ちた神の国であることを信じ、またそれを告げ知らせる使命を負っています。イースターにおいて、そして毎週の主日礼拝において、教会はこの信仰を告げ知らせるのです。また、私たち一人一人も自分自身の人生と生活を通して、この世に復活の喜ばしい福音を証しし続けていくのです。

 

最後にもう一度、この福音を思い起こしましょう。そして、世界に向かって私たちもまた宣言したいと思います。「恐れることはない。わたしは、あなたがたが十字架につけられたイエスを探していることを知っている。その方は復活され、あなたがたの前を行かれている。来て、見なさい。ハレルヤ。キリストは復活された」。「彼は、本当に復活された」。「キリストの光と平和のうちに出て行こう。ハレルヤ。ハレルヤ」。「神に感謝。ハレルヤ。ハレルヤ」。