「主に喜ばれる者」

                         コリントの信徒への手紙二 5610節 

                                       水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の5章の6節から10節です。

この箇所を読んで、心惹かれる言葉があります。それは「わたしたちは、心強い」という言葉です。6節と8節にその言葉があります。

今日の聖書でパウロが語っているのは死ののちのことについてです。それなのに「心強い」とはどういうことでしょうか。

ある本ではこの「心強い」という所を「確信に満ちている」と訳しています。

信仰は確信に満ちていなければならないものです。信じるというのですから、どこまでも信じるのであって、あやふやなものなのではありません。殊にここに書かれているのは死ののちの話です。ある意味から言えば、それは一番分かりにくいことです。不確かなものといってもよいかもしれません。だからこそ確実に信じられなければならないのです。信仰はどんなことでも神と関わりがあります。その中でも特に目に見えないことは神の御業です。そうであるならば、そのことについて確信を持つなら、いっそう強く神を信じることになります。

もう一つ心惹かれる言葉があります。それは6節の「いつも」という言葉と「知っています」という言葉です。

心強いのは「いつも」だというのです。「いつも」とは、何が起こっても、どんなことがあっても、ということです。死ののちのことがいつも私たちに確信を与えているというのです。それはこれから語るようなことを「知っている」からです。漠然と知っているのではなく、はっきりと知っているのです。それもまた「心強い」ことの理由です。

では何を知っているというのでしょうか。

7節にこうあります。「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」

これは別の言葉で言えば、永遠の命を受けて生活しているということです。

ではそれはどのような生活なのでしょうか。ご覧のとおり、ここには何の説明もありません。しかし、一つ明らかなことがあります。それは「信仰によって」ということです。

聖書が何よりも私たちに示すこと、それは信仰による生活です。つまり、永遠の命を受けて生活するというのは信仰によって生活するということです。私たちの信仰生活は永遠の命を受ける生活なのです。

それはまた「目に見えるものによらない」生活です。つまり、神を信じる生活、イエス・キリストによって救われた生活です。

私たちはイエス・キリストによって救われました。イエス・キリストが私たちを救われたのは私たちを愛されたからです。それ以外に理由はありません。イエス・キリストと私たちとは愛し愛される関係、愛によって結ばれた関係です。ところが、残念なことに、イエス・キリストを自分が困った時に助けを求める助け主としてしか、とらえていない人がいます。そのためにイエス・キリストとの深い交わりを持つことができずにいます。

しかし、パウロはそうではありませんでした。

8節にこうあります。「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」

パウロは「主のもとに住むこと」、すなわちイエス・キリストと共にあることを何にもまさる望みとしたのです。しかも、そのためには「体を離れて」、すなわち世を去ることもいとわないというのです。なぜそうなのでしょうか。イエス・キリストを愛していたからです。

ですから、9節でこう言っています。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」

誰でも人に喜ばれる者でありたいと思うでしょう。信仰を持っている人なら、それだけではなく、神に喜ばれる者でありたいと思うでしょう。パウロももちろんそういうことを願ったでしょうが、彼にとってはイエス・キリストに喜ばれる者でありたいということが一番の願いでした。なぜでしょう。自分はイエス・キリストに愛されていると信じていたからです。イエス・キリストによって救われた自分は、キリストのために、キリストを喜ばせるために生きる者とさせられたと信じていたからです。

10節にこうあります。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」

パウロはキリストと共にあることついて語ったばかりなのに、ここでは「キリストの裁き」について語っています。「キリストの裁き」というのは世の終わりに行われる裁き、最後の審判のことです。ではキリストと共にあることとキリストの裁きとはどういう関係にあるのでしょうか。この二つはどのように結びつくのでしょうか。

ある人が次のようなことを語っています。「キリスト者は他の人々よりも神の聖さと厳しさをよく知っている。」

罪の赦しを受けた人はその罪がどのようにして赦されたかを知っています。イエス・キリストの十字架によって赦されたのです。そこでイエス・キリストの血が流されたのです。罪というものはそれほどの手続きを取らなければ赦されないものであることを知っているのです。つまり、罪を赦された者は、罪など問題にしない者よりも遙かにまさって、神の聖さと厳しさを知っているのです。

ここでパウロは、「神の裁きの座」と言わないで、「キリストの裁きの座」と言っています。この二つの間にもし違いがあるとすれば、それはキリストと共にある者こそがキリストの裁きの意味を知っているということでしょう。

「善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」ということは、イエス・キリストの救いがまるで無効になってしまったかのように思われるかもしれません。しかし、そうではありません。これはイエス・キリストの救いを受けた人でも神の聖さを侮ることは許されないということです。

私たちは救いを知らない者のように恐れおののくのではありません。しかし、救われたからといって、いい加減な生活はできないのです。

 

私たちはますます主に喜ばれる者としての生活に励みたいと思います。主を喜ばせようとするところにこそ、信仰の成長はあるのです。